タミヤモデルカーコンテスト

タミヤモデルカーコンテストとは
1971年、タミヤは全国規模のプラモデルコンテストを開催しました。プラモデルのコンクールなどはそれまでもあちこちで開かれていたのでしょうが(特に飛行機)、カーモデルに関するこれだけ大規模なコンテストは初めてのことでした。その内容は概ね次のとおりでした。

・作品が展示される場所は第4回東京レーシングカーショウの会場(晴海国際貿易センター)。ショウのイベントの一つとして開催。
・まず写真(5枚)と説明文(2000字以内)による書類選考を行い、これにパスしたものが本審査へ。
・審査員には憧れの秋本実先生(模型評論家)や望月修氏(レーサー)などの名が。
・特選5万円、準特選3万円(2名)、入選1万円(5名)、佳作30名。

このモデルカーコンテストになぜ応募しようとしたのか良く覚えていませんが、おそらく「一つ力試しをやってみよう。」という気になったからでしょう。締め切りは2月、制作スタートは11月、高校2年の時でした。

 

工夫した点

その頃私はホンダF-1、ゴールドリーフロータスと1/12シリーズにはまっており、課題に選んだポルシェカレラ10も一度完成させておりました。

ポルシェは良いモデルと言えましたが、どうしても私にとって我慢ができなかったのが、ドア、エンジンカウルが開閉しないことでした。
910のドアは、その前の906(カレラ6)のようなガルウイングではなく、斜め前方にほぼ180度開くタイプです。

ものの本によると、906のガルウイングが走行中に風圧で開くことがあり、このように改善したそうです。

あまり格好は良いとは言えませんが、ピットですばやくドライバー交代をしたり、整備をするための実利的な構造でした(レーシングカーや戦車・戦闘機などには飾りとしてのデザインはありませんが、そこがむしろ美しいと言えるのです)。

タミヤニュースでもドアを開閉させる技法が紹介されていましたが、あれは見た目が今一つ。そこで何とか超小型のヒンジを自作し、見栄えを損ねないで実車と同じ開閉ができるように工夫しました。

 

その他工夫した点は・・・。 

・キットでは動かないフロントサスペンションを、完全に動くようにしました。

・4つのライトを点灯するようにしました(もちろんテールランプも点灯)。

・電池の収納をフロントの「スペアタイヤ入れ」に移動しました。これによりエンジンカウルを開けたときも電池が見えず、ディスプレーが冴えます。

・ドアのガラスにある小窓もくりぬいて開閉式にしました。

・表面はコンパウンドで磨きをかけました。

・キットのレンズカバー回りは非常に出来が悪かったので(ここが910のデザインのポイントだというのに!)、滑らかに仕上げるのに苦労しました。

完成した910、ぱっと見はキットをそのまま完成させたように見えますが、中にはいろいろな仕掛けが詰まっているという考え方です。正直言ってこんなに一生懸命プラモを作ったのは初めてでした。

 

嬉しい入選

書類審査は無事通過し、二次審査の案内が送られてきました(後ほど聴いた話では、全国から350点以上の応募があり、書類選考で80点に絞られたそうです)。

キットは郵送しようかとも思いましたが、自分で持ちこむことにしました。新潟から電車に乗って高田馬場にある三栄書房(モーターファン、オートスポーツ発行元)を訪ねました。遠方からやってきた高校生を編集部の方は暖かく歓迎してくれました。すでに多くのキットが持ちこまれており、脇のテーブルに並べられていましたが一部は破損しており、直接持ちこみは正解だったと思いました。

高校2年の冬といえば受験まで一年という大事な時期、今考えれば良く親は黙って見ていたな、交通費も良く出してくれたなと感謝します。

 

昭和46年3月29日、送られてきていたレーシングカーショウの入場招待券を持って再度東京へ出発です。

会場は晴海国際貿易センター。この時点では自分が入選したのか落ちたのかなどは判りません。会場につき、多くの人の波を抜けてまっしぐらにカスタムカーコンテストのブースに直行、作品を探しました。

 

 

 

何と入選しているではありませんか・・。

あのときの気持ちはなかなか言葉では言い表せません。体全体が熱くなるのを感じ、しばらく自分の作品の前に佇んであふれる嬉しさに浸っていました。

※右の記事は、三栄書房 AUTO SPORT YOUNG 1971AUTUMN号より

 

 

 

 

 

 

私に足りなかった「モチーフ」とは・・

夕方表彰式があり、秋本実審査委員長からトロフィーをいただきました。周りの入賞者は皆大人です。秋本さんの顔は「よく作ったね、坊や。」とでも言いたげな表情でした。
表彰式後秋本さんや望月さんとお話をさせていただいたのですが、望月さんが「モチーフが云々」というおっしゃり方をしたのが心に引っかかりました。

16歳の私には「モチーフ」なる言葉の意味を理解できず、そのときはそれで終わったのですが、今改めて考えてみれば望月さんの言いたかったことはおそらくこう言うことだったのでしょう。

「あなたの作品は確かにきれいに仕上がっている。だがことコンテストに出そうという作品にはまずテーマ、プランニングの練りこみが必要なのではないだろうか。
プラモデルは素材に過ぎない。
これを利用してあなたの表現したいことがもっと現れて形になっていれば、さらに感動ある作品ができたはず。」

確かに特選、準特選の作品は、キットを自己表現のための素材として利用している、と言ってもよいものばかりでした。しかしそのためにはお金もかかります。特選作は作品を完成させるためにキット10台を使ったと紹介されていましたが、1800円のキット一台買うのも一苦労の私には無理な話でした。

だが全日本という場では言い訳はききません。少なくとも私はキットを作り込む技は持っていても、「モチーフ」を暖め、それを自在に表現するレベルには達していなかったのです。

一方審査委員長の秋本さんの場合は、まず工作・塗装技術、次に実車としてそれが成立するかを重要視していました。レーサーとしての目、模型評論家としての目はずいぶん違いがあるものです。

写真はこのときの入賞作品 (三栄書房 AUTOSPORTS 昭和46年5月号付録より)

●私の作品以外は展示に凝っていたり、何らかの見た目の改造がほどこされている。

●この中で特に心惹かれたのが、優勝した917よりむしろ私の作品の上にあるロータス72フォード。TAMIYAのキットより早い!フルスクラッチである。当時の私には到底真似のできない次元の作品に思えた。この時の感動が後のタイレルP−34フルスクラッチにつながっている。

 

何はともあれ、それまで自分ながらに楽しんできたプラモ作りが、大きなコンテストの場で評価されたという事実は、私に大きな自信を与えてくれました。

 

 所でこのプラモ、万一のレストア用に、一度再販になったキット(2600円)を組み立てずに確保していましたが、2001年になっての2回目の再販(7500円)キットもまたまた思わず購入してしまいました。

2011年に40年ぶりにレストアして当時の姿を蘇らせましたが、発売当時のキットを完成保存している人は日本広しといえどそう多くはないだろうと、一人悦に入っています。

 

レストア後の写真はこちらをご覧ください。