なぜ予科練を志願したのか?
俺は次男だったからな。家族の中で一人ぐらいは職業軍人になるというのが、当時の雰囲気だった。弟たちはまだ若かったし、そんな感覚で。
入隊してからの話を
服を支給されたんだが、あちこちがぶかぶかだった。だがカッター訓練などで鍛えているうちに筋肉がついて、服がぴったりになったよ。
どこまで訓練したのか?
中練(九三式中間練習機・・赤とんぼ)までだった。
見たことのある飛行機は?
・隼・・・大連の周水子飛行場から防空演習で飛び立っていた。
・雷電・・・釜山で見た。内地の基地への空襲が激しくなり、避難で飛んできた。パイロット達は飛行機を降りるとささと街に繰り出していった。機体には「サワルとブチ殺すぞ」と書いてあった。やがて内地へ戻っていったが、真っ黒い煙を吐いて、ものすごい上昇をしていった。
・月光・・・釜山で見た。斜め銃がついている夜間戦闘機だな。スピードが速く、スマートな機体だった。
・白菊・・・釜山で指令が本土との往復用に使っていた。この飛行機は最後に特攻にも使われたがな。※皆さん白菊って知ってますか?2枚ペラのずんどうな飛行機ですけど。
・一式陸攻・・・
霞が浦に配備されていた。でかい飛行機だなと思った。空襲があって警報が鳴り、押しながら散会させたんだが、そのうちF4U(コルセア)が迫ってきた。俺
が押していた飛行機の場合はいよいよ危ないとなったんで、皆適当なところで逃げたが、滑走路の反対側で最後まで正直に押していた者はやられた。低空飛行の
F4Uパイロットの表情まで見えた。
・銀河・・・郡山で見た。一式陸攻に比べ、ずいぶんスマートで
かっこよかった。一式陸攻は確か9人乗りで、一機落ちると9人死ぬ。一式陸攻は前後と両サイドに4つの銃座があったしな。だから銀河は3人乗り(操縦・通
信・射撃)だったという話を聞いたぞ。郡山で8月に空襲があったときに民家もやられたんだが、その民家の厩(うまや)にラバーを貼り付けた銀河の燃料タンクがあった。「おー、日本もタンクにラバーを貼り付けるようになったのか。」と思った。一式陸攻は「一式ライター」と言われるくらい、火がつきやすかったな。
零戦は見たことはなかったのか?
存在は知っていたが、見たことはなかったな。
ところで零戦は「れいせん」と言っていたのか、「ゼロ戦」と言っていたのか? ゼロは敵性語だから使わなかったんじゃないか?
当時も「ゼロ戦」と言っていたような気がするが、よく覚えてないな。
特攻の志願をしたと言っていたよな。
特
攻と言っても人間魚雷「回天」だ。俺達はまだ戦闘機は操縦できないしな。奈良にいたときで、昭和19年の8月。暗い部屋に呼ばれた。隊長と士官が並んでい
た。隊長から時局の深刻さと回天のことを説明された。「今から紙を渡すから、志願する者は○を書いて出せ。」と言われた。
○を書いたのか?
俺
は家族のことが頭によぎったが、○を書いて出した。書かなくてもすむという雰囲気ではなかった。血気盛んなやつの中には大きく◎を書いて出した者もいた。
下士官はその話しに加わっていなかったから、あとで「何があったんだ!!」などと聞かれてね。こっちも「言えません!!」と言ったりして。
だが結局行かなくてすんだ。だから俺が生まれた。
特攻への意志を確認し、そのあとは適性で人選したんだ。何人かが回天部隊に回り、消息は分からなくなった。
・・・・・・・・・。
家にあるこれ(右)は何だ?
左
は九六鑑戦、右は銀河の風防だ。壕(霞ヶ浦の防空壕)に入っているとき、こういうものを細く切って火をつけるとよく燃える。俺は持っていなかったが、もっ
と厚いのもあって、それをはんこ屋に持って行って印鑑を作ってもらっている奴や、時計のガラスを上手に作っている奴、ベルトのバックルやキーホルダーを
作ってじゃらじゃらさせている奴もいた。
印鑑を作れるくらい厚いのがあったのか?
操縦席の後ろの防弾ガラスだ、後ろも監視しなければならないから、防弾ガラスは透明だったよ。
戦争中にどうして手にはいるのか?
整備兵と仲良くなったりしたんじゃないか?
この二枚はいつ手に入れたのか?
終戦になって統制もなくなったんで、バリバリっと破いてね。九六鑑戦は正面、強引に破った。銀河はサイドだ。薄いもんだなーと思った。
参 考
九六鑑戦の方は厚さ約5ミリ、銀河の風防は約3ミリです。
銀河の方はコーナーが丸められており、実機の写真と見比べても明らかにサイドの部分です。
端面は手仕上げでヤスリがかけられています。 |
終戦を迎えた郡山海軍航空隊(現日大工学部)について、もうちょっと詳しく教えてくれ
○所属する第二郡山航空隊は60名からなり、日々その単位で行動した。飛行場の回りには、これを取り囲むように兵舎がたくさんあり、その一つにいた。
兵舎間の交流はほとんどなかったので、基地全体でどのくらいの人がいたのかはわからないな。
日常は、
・街での使役
・迫撃砲の訓練(ただし、実弾ではなく模擬弾)
・兵舎の疎開で屋根瓦の運搬
などだった。
○九三中練などが飛んでいたが、おそらく39期の先輩だったろう。41期の自分たちはすでに飛行訓練は行わなかった。他に九六鑑戦などがあったが、飛んでいるのは見たことがない。
(注:予科練甲13期と言っても、その中でも細かく別れるようです)。
○白の第一種軍装を萌葱色に染め直されたぞ。
○新聞などはなく、世情がどうなっているのかは全くわからなかった。隊の食事は決して悪くなかった。
○日常、郡山の街に出ることもあった。食堂などもあり、外食をした。大したものはなかったが・・。(4月12日に空襲を受けたとのことだが)、街にはそのような痕跡はなかった。
街には陸軍の兵隊も多くいた。血気盛んな年頃で、また陸軍と海軍なので時々ケンカになることもあったが、こちらは下士官なので位は高い。階級がわかったあと、絞り上げたさ。陸軍の兵隊にとって海軍の階級はよくわからなかったわけだな。
民家に宿泊したこともあったが、その時は米や味噌を持っていった。
郡山にいた後半の時期は、隊の風紀も乱れた感じだった。
○8月(8日〜10日前後)に空襲があった。「F4Uが石巻方面から侵入」との放送があった。時間は朝食後と昼の二回。その数は5機や10機ではなかった(もっと多かった)。
朝は兵舎にいたが、兵舎に銃撃を受けた。昼は小高い丘に逃げていた。米軍機が飛行場を銃撃するのが見えた。
米軍機からロケット弾(ロケット砲)が発射されるのも見た。発射されると、「しゅっ」と真っ黒い煙を吹いた。練習機などがやられたが、そのあとには直径5m以上の穴があいた。
隊では3人やられた。伝令に行って動いているところを狙われた。
○駅の近くへの空襲もあった。
○基地の回りには25mm機関砲があったが、バババとは撃たないで、ポン・・・ポン・・と音がしていた。情けないものだと思った。後ほど11機落としたと言われた。
○空襲終了後街に片づけに行った。飛行場の近くに中島飛行機の整備工場があった。銀河の部品もあった。兵舎の被害はそれほどでもないのに、民家は完全にやられていた。こんな民家でこんな部品が作られていたのかと思った。
玉音放送は聞いたのか?
聞
かなかった。あることも知らなかった。訓辞もなかったよ。だが話はあとで伝わってきた。古参の陸戦部隊の下士官などは「これから戦うんだ!」などと息巻い
ていたが・・・。その後8月15日付けで一等飛行兵曹に昇進したし、汁粉なども出た。「こんなもんがあったのか。」と思った。8月24日に郡山の駅に集合
となり、金や米、餅の粉をもらって除隊になった。俺は本家があった新潟(栃尾)に向かったが、朝鮮に家がある奴はそちらに向かおうとした。だが結局行けな
かったよ。
参考
こういう親父ですから、実家には色々なものがあります。戦友仲間とも交流があり、本なども山積みになっていますが、今日は昭和16年に海軍機動部隊がパールハーバーを急襲した際に赤城から発信された電文のコピーを・・。
おそらく戦記雑誌などで見ることのできるものですが、一つの歴史の節目になった資料として紹介します。
奇襲成功セリ・・0322電文
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