予科練親父(認識番号:呉志飛15778)のこと

長いお話の始まりです

皆 様、当サイトにようこそいらっしゃいました。これからプラモデルにまつわる長〜いお話の始まりです。お好きなところから眺めるもよし、写真だけ見るもよ し・・ですが、できれば脇にお茶なんぞ置いて、順にゆっくり読まれると、私という個人を通したプラモデルの歴史の側面を見ることができるかもしれません。

さて、まず最初に親父のことをお話しします。模型の話を親父のことから始めるのも変ですが、それは予科練出身の親父が作った零戦52型が、私が初めて目にしたプラモデルだったからです。

ちなみに右は親父のアルバム。下の写真などが収められています。戦闘機と空母がレリーフされていますが、興味のある方はクリックして拡大画像をご覧ください。


親父の経歴

・昭和2年、満州大連生まれ。男4人、女二人兄弟の次男。
・昭和18年12月大連高等工業在学中、予科練13期生として採用。
・奈良、釜山、霞ヶ浦、郡山と練習航空隊を動き、ここで終戦。
・戦後満州から引き上げてきた家族と再会。なお、兄は戦死。
・現在は勤めていた会社を定年退職し、悠々自適。

oyaji.JPG

昭和20年
4月撮影
親父の隊の訓練風景 親父の隊のカッター訓練風景
親父との一問一答

なぜ予科練を志願したのか?

俺は次男だったからな。家族の中で一人ぐらいは職業軍人になるというのが、当時の雰囲気だった。弟たちはまだ若かったし、そんな感覚で。

入隊してからの話を

服を支給されたんだが、あちこちがぶかぶかだった。だがカッター訓練などで鍛えているうちに筋肉がついて、服がぴったりになったよ。

どこまで訓練したのか?

中練(九三式中間練習機・・赤とんぼ)までだった。

見たことのある飛行機は?

・・・大連の周水子飛行場から防空演習で飛び立っていた。

雷電・・・釜山で見た。内地の基地への空襲が激しくなり、避難で飛んできた。パイロット達は飛行機を降りるとささと街に繰り出していった。機体には「サワルとブチ殺すぞ」と書いてあった。やがて内地へ戻っていったが、真っ黒い煙を吐いて、ものすごい上昇をしていった。

月光・・・釜山で見た。斜め銃がついている夜間戦闘機だな。スピードが速く、スマートな機体だった。

・白菊・・・釜山で指令が本土との往復用に使っていた。この飛行機は最後に特攻にも使われたがな。※皆さん白菊って知ってますか?2枚ペラのずんどうな飛行機ですけど。

一式陸攻・・・ 霞が浦に配備されていた。でかい飛行機だなと思った。空襲があって警報が鳴り、押しながら散会させたんだが、そのうちF4U(コルセア)が迫ってきた。俺 が押していた飛行機の場合はいよいよ危ないとなったんで、皆適当なところで逃げたが、滑走路の反対側で最後まで正直に押していた者はやられた。低空飛行の F4Uパイロットの表情まで見えた。

銀河・・・郡山で見た。一式陸攻に比べ、ずいぶんスマートで かっこよかった。一式陸攻は確か9人乗りで、一機落ちると9人死ぬ。一式陸攻は前後と両サイドに4つの銃座があったしな。だから銀河は3人乗り(操縦・通 信・射撃)だったという話を聞いたぞ。郡山で8月に空襲があったときに民家もやられたんだが、その民家の厩(うまや)にラバーを貼り付けた銀河の燃料タンクがあった。「おー、日本もタンクにラバーを貼り付けるようになったのか。」と思った。一式陸攻は「一式ライター」と言われるくらい、火がつきやすかったな。

零戦は見たことはなかったのか?

存在は知っていたが、見たことはなかったな。

ところで零戦は「れいせん」と言っていたのか、「ゼロ戦」と言っていたのか? ゼロは敵性語だから使わなかったんじゃないか?

当時も「ゼロ戦」と言っていたような気がするが、よく覚えてないな。

特攻の志願をしたと言っていたよな。

特 攻と言っても人間魚雷「回天」だ。俺達はまだ戦闘機は操縦できないしな。奈良にいたときで、昭和19年の8月。暗い部屋に呼ばれた。隊長と士官が並んでい た。隊長から時局の深刻さと回天のことを説明された。「今から紙を渡すから、志願する者は○を書いて出せ。」と言われた。

○を書いたのか?

俺 は家族のことが頭によぎったが、○を書いて出した。書かなくてもすむという雰囲気ではなかった。血気盛んなやつの中には大きく◎を書いて出した者もいた。 下士官はその話しに加わっていなかったから、あとで「何があったんだ!!」などと聞かれてね。こっちも「言えません!!」と言ったりして。

だが結局行かなくてすんだ。だから俺が生まれた。

特攻への意志を確認し、そのあとは適性で人選したんだ。何人かが回天部隊に回り、消息は分からなくなった。

・・・・・・・・・。

家にあるこれ(右)は何だ?

左 は九六鑑戦、右は銀河の風防だ。壕(霞ヶ浦の防空壕)に入っているとき、こういうものを細く切って火をつけるとよく燃える。俺は持っていなかったが、もっ と厚いのもあって、それをはんこ屋に持って行って印鑑を作ってもらっている奴や、時計のガラスを上手に作っている奴、ベルトのバックルやキーホルダーを 作ってじゃらじゃらさせている奴もいた。

印鑑を作れるくらい厚いのがあったのか?

操縦席の後ろの防弾ガラスだ、後ろも監視しなければならないから、防弾ガラスは透明だったよ。

戦争中にどうして手にはいるのか?

整備兵と仲良くなったりしたんじゃないか?

この二枚はいつ手に入れたのか?

終戦になって統制もなくなったんで、バリバリっと破いてね。九六鑑戦は正面、強引に破った。銀河はサイドだ。薄いもんだなーと思った。

参 考

九六鑑戦の方は厚さ約5ミリ、銀河の風防は約3ミリです。
銀河の方はコーナーが丸められており、実機の写真と見比べても明らかにサイドの部分です。
端面は手仕上げでヤスリがかけられています。

 

終戦を迎えた郡山海軍航空隊(現日大工学部)について、もうちょっと詳しく教えてくれ

○所属する第二郡山航空隊は60名からなり、日々その単位で行動した。飛行場の回りには、これを取り囲むように兵舎がたくさんあり、その一つにいた。
兵舎間の交流はほとんどなかったので、基地全体でどのくらいの人がいたのかはわからないな。

日常は、
・街での使役
・迫撃砲の訓練(ただし、実弾ではなく模擬弾)
・兵舎の疎開で屋根瓦の運搬
などだった。

○九三中練などが飛んでいたが、おそらく39期の先輩だったろう。41期の自分たちはすでに飛行訓練は行わなかった。他に九六鑑戦などがあったが、飛んでいるのは見たことがない。
(注:予科練甲13期と言っても、その中でも細かく別れるようです)。

○白の第一種軍装を萌葱色に染め直されたぞ。

○新聞などはなく、世情がどうなっているのかは全くわからなかった。隊の食事は決して悪くなかった。

○日常、郡山の街に出ることもあった。食堂などもあり、外食をした。大したものはなかったが・・。(4月12日に空襲を受けたとのことだが)、街にはそのような痕跡はなかった。
街には陸軍の兵隊も多くいた。血気盛んな年頃で、また陸軍と海軍なので時々ケンカになることもあったが、こちらは下士官なので位は高い。階級がわかったあと、絞り上げたさ。陸軍の兵隊にとって海軍の階級はよくわからなかったわけだな。
民家に宿泊したこともあったが、その時は米や味噌を持っていった。

郡山にいた後半の時期は、隊の風紀も乱れた感じだった。

○8月(8日〜10日前後)に空襲があった。「F4Uが石巻方面から侵入」との放送があった。時間は朝食後と昼の二回。その数は5機や10機ではなかった(もっと多かった)。
朝は兵舎にいたが、兵舎に銃撃を受けた。昼は小高い丘に逃げていた。米軍機が飛行場を銃撃するのが見えた。
米軍機からロケット弾(ロケット砲)が発射されるのも見た。発射されると、「しゅっ」と真っ黒い煙を吹いた。練習機などがやられたが、そのあとには直径5m以上の穴があいた。
隊では3人やられた。伝令に行って動いているところを狙われた。

○駅の近くへの空襲もあった。

○基地の回りには25mm機関砲があったが、バババとは撃たないで、ポン・・・ポン・・と音がしていた。情けないものだと思った。後ほど11機落としたと言われた。

○空襲終了後街に片づけに行った。飛行場の近くに中島飛行機の整備工場があった。銀河の部品もあった。兵舎の被害はそれほどでもないのに、民家は完全にやられていた。こんな民家でこんな部品が作られていたのかと思った。

 

玉音放送は聞いたのか?

聞 かなかった。あることも知らなかった。訓辞もなかったよ。だが話はあとで伝わってきた。古参の陸戦部隊の下士官などは「これから戦うんだ!」などと息巻い ていたが・・・。その後8月15日付けで一等飛行兵曹に昇進したし、汁粉なども出た。「こんなもんがあったのか。」と思った。8月24日に郡山の駅に集合 となり、金や米、餅の粉をもらって除隊になった。俺は本家があった新潟(栃尾)に向かったが、朝鮮に家がある奴はそちらに向かおうとした。だが結局行けな かったよ。

参考

こういう親父ですから、実家には色々なものがあります。戦友仲間とも交流があり、本なども山積みになっていますが、今日は昭和16年に海軍機動部隊がパールハーバーを急襲した際に赤城から発信された電文のコピーを・・。

おそらく戦記雑誌などで見ることのできるものですが、一つの歴史の節目になった資料として紹介します。

奇襲成功セリ・・0322電文

そのころ母親は・・

母親(写真前列中央)は父と同じく昭和二年生まれ。新潟県長岡市(山本五十六の出身地)で生まれました。皇紀二六〇〇年の式典や出征兵士の壮行会でトランペットを吹いていたそうです(へー)。

昭和20年、長岡市は空襲にあって焼けました。母の家は長岡と言っても郊外でしたので、街が真っ赤に染まるのを震えながら見ていたそうです。

ちなみに写真は満十三歳(昭和一五年)の時のもの(数えで14歳)。現在の13歳に比べて、あまりにも大人っぽいのに驚きます。

終戦後、縁があって父と結婚し、私が生まれました。