レース黎明期 
仲間走行からレース、そして第一次のブームへ
しばらくは学校の体育館などに簡単なマーカーを置いてレースのまねごとをしていましたが、やがて「市役所の駐車場でやっている人がいた。」などの話を聞きつけて覗きにいき、その場で知り合いになったり・・・と次第にその輪は広がっていきます。プラモの場合は個人の遊びと言えましたが、ラジコンはどんどん輪が広がる面白さがありました。

正式なレースも始まりました。レギュレーションは6V、380sモーターです。ほとんどの人はバッテリーを1本しか持っていませんが、6V、380sモーターの場合、概ね20分は走るので、予選を3回ほど行って、更に決勝を走っても電池は何とか持ちました。

 最低重量などのレギュレーションはなく、軽量化は性能向上の大きなポイントでした。タミヤのポルシェ934はボディーがプラモベースですからスケール感は申し分ありませんでしたが、どうしてもレースでは重さがネックになり、次第にポリカのボディーが全盛になっていきます。当時私の作っていた車は概ね800〜900g前後でした。

 

1977年、78年と進んで行くと各社から様々なキットが登場し、ラジコンは一大ブームとなりました。模型屋を中心にいくつかのラジコンサークルが誕生し、レースも盛んになっていきます。

写真は私が現在も所属している「クリヤマ模型」所属チーム「SRD」の記念すべき第一回グランプリです。場所は自動車学校のバイク教習コース。子供が非常に多いことが、今とは違いますね。またほとんどがタミヤ車(ポルシェ、F−1、カウンタックなど)で、その支配力がわかります。

 

下の写真は1979年夏のもの。祭りのイベントの一つとして歩行者天国で開かれたレースです。ニチモの1/10ランチアなど、懐かしいモデルがありますね。ちなみに、椅子に座っているのはドライバーではなく、計測者。当時はAMBなどありませんから、ドライバー一人一人に計測者を割り当て、ストップウオッチとラップカウンターで、数えていくやり方でした。

この作業は注意力も必要で、誰でもが・・と言うわけには行きません。主催者側は自分の出場と計測のかけもちで、なかなか大変なのです。

レースが進んで行きますと車も腕も進化していき、上手な人と初心者(あるいは子供)ではクラスを分ける必要が出てきます。とにかく当時、ラジコンは大人より子供の方が人口は多かったのです。