二回目の全日本
昭和61年度 JMRCA 1/12電動カー全日本選手権 出場記 
2回目の全日本出場は1986年(昭和61年)のことです。2年間のブランクがありますが、行かなかったのか、行けなかったのか良く覚えていません。確か一度は開催地が関西だったので敬遠したと思います。

このときもファントムを持っていきました。この頃には3Pサスカーも更に進化し、ファントムはやや時代遅れの感がありましたが、私はこの車が大好きだったのです(今でも膨大なパーツ、手をつけていないキットなどがあり、なかなか捨てられません)。

会場の駒沢公園は最初かなりスリッピー、2WD勢はつらそうです。「ファントムを持ってきて正解!」と喜んだのですが、ワークスさんたちは臨機応変に4WDと2WDを切り替えています。

また、メンバーが互いにセッティングを変えて走行し、うまく行ったデータをチームメンバーに伝達して行くので、

どんどんと煮詰まって行くのです。予選が進み、路面のホコリがクリアになって行くと、明らかに2WDが有利になりました。

我々新潟県勢5人の中で3名(弓納持、伊藤忍君)はファントムを選択していました。ワークスと同じようにセッティングデータを交換してチームで順位アップを狙いますが、なにぶん一つ一つの車に「工夫」があるものですから、同じデータがそのまま通用するとは限らず、苦戦します。

 写真は電波実験社 ラジコン技術 1986/10月号より。

ぎりぎり準決勝へは進出 後は成り行き

それでも何とか41名(出場は160名)の準決勝枠にぎりぎり滑り込み。と言っても予選の成績は、私37位、弓納持君39位、伊藤忍君41位というまさにぎりぎりの線※でした。そうなるともう準決勝はお祭り気分です。なぜかって? だってそれ以上悪くなることはないわけですからね。

※この大会でのルールは、予選1位の高麗選手が無条件で決勝進出、次に予選2位〜41位までの40名が準決勝進出というものでした。
※伊藤選手は現在もEPツーリングなどで大活躍中。
※弓納持選手はこの年の1/10EPオフロード全日本、4WDのクラスを見事制してくれました。

準決勝は予選の順番にグループ分けがされました。ここでまたも問題が。そう、我々新潟チームは「ワークスばりのボディーカラー」だったものですから、準決勝は同時走行。お互いの車の区別がつきにくいのです。走り始めてバラけてしまえばそうでもないのですが、特にスタートの直後は気を使いました。皆さん、チームカラーで参加する時は注意しましょう。特にコースの広い大きな大会の時は・・・。

準決勝は気温のせいで路面がスリッピーになったためか、それともコースに慣れたためかやや好調。1〜2回フェンスと仲良しになってしまいましたが、結果的に24位をいただきました。ちなみに弓納持、伊藤君はそれぞれ25、26位とこれまた仲良しでした。

アマチュアの限界とは
前回の全日本での場合、決勝進出の限界タイムと私の準決勝タイムとの差は約5秒と計算されます。今回はそれが10秒に広がりました。その原因は、やはりワークスとアマチュアの力の差が広がったからと考えます。私達が使ったファントムは路面を選ばず良く走り、またある程度ラフな操縦をしても車の方でそれを許してくれますが、2WDになると、セッティングはよりシビアになります。もし私がこの場所に2WDを持ってきていても、おそらくそれほど良い成績は取れなかったでしょうが、ワークスには何人かでセッティングデータを交換しながら短時間にセッティングを決めてしまう力とノウハウがありました。

また、部品やバッテリーも常にベストのものが用意できますが、我々アマチュアは交通費の問題から始まり、パーツなどもなかなか壊れるまで交換できません。

会場で新潟勢の一人が”さもすごいものを見つけたような表情”で私に声をかけました。「会長、見て! こんなものがごみ箱にたくさん。」・・・それは新品のスポンジタイヤをホイルに接着した後、タイヤカッターでちょうど良いいサイズにくりぬいた後、捨てられた外周だったのです。その厚さは約5mm。走りこんで使えなくなったタイヤに接着すれば、また練習用に再生できる「お宝」でした。

ご存知のようにタイヤにはベストの直径があります。我々アマチュアは新品のタイヤを組んだときは練習などでだんだん直径を減らしていき、適度に削れた時に外周を整えて本番用に取っておくわけですが、ワークスは一気にベスト径にしてしまうのです。「そういう’いじましい’ことはやめようよ。」 「でももったいないですよう。たくさんあるし。」 「どれどれ。」と言うわけで、ごみ箱をのぞきに行った私、帰りには両手にたくさんの・・・。

その後、全日本出場を目指さなくなった訳
ワークスにとって、全日本選手権は何よりも大切なPR、いや商売の場所です。ここで優勝するなど上位に入れば、自社製品の売上に大きく貢献するからです。AYKが高い評価を得ていたのも全日本選手権で活躍していたからですし、京商のファントムも、この場での活躍はさぞ売上のプラス要素になったでしょう。

そのためでしょうか、特に某ワークスの残念なふるまいが目立ちました。より良い位置のお立ち台を確保するため、仲間にいち早く場所取りをさせ、自分はおもむろにやってくる・・・、あるいは自分の車とアマチュアドライバーの車がからみそうになると「ワークスが通ります!」と叫んで牽制する・・・。この様子を、私は苦々しく眺めていました。

もちろん素晴らしいマナーを持ったドライバーもいました。61年の全日本はあの広阪選手が初めてビッグタイトルを取った大会ですが、決勝の際、前半でフェンスにからんだ広阪選手が、後続の車を全て安全にやりすごしてから、一呼吸おいて再び走り出した様子には正直感動しました。

ただあまりにもぴりぴりしたレースの雰囲気と、一部ワークスチームのレースに臨む姿勢を見て、私はその後全日本を目指す意欲を失った・・・のが正直なところです。