こだわり道場過去ログ 雑ネタ編

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33.「”あの世はない” と思う方は手を挙げてください
」「はい!」 ・・・18/9/1

今回の記事、本当はお盆前に出そうと思っていたんですけど、何度書き直しても満足できなくて9月になっちゃいました。でもボツにするのも悔しいのでアップします。 宗教ネタはそれだけデリケートで難しいってことでしょうか。

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かなり以前、高齢で亡くなった方の葬儀に参列した時のこと、 ご導師(住職)様が法話の途中で

「皆さんの中で ”あの世はない” と思う方は手を挙げてください」

とおっしゃったんです。

私は手を挙げました。

奥さん 「あんたのことだから挙げるかなと思ったけど、やっぱりね」
私   「他にどのくらい挙げたのかな?」(←結構前の方に座っていたので後ろの様子はわからない)
奥さん 「ほとんどいなかったと思うわよ」

「死後の世界はない」と思っている人の割合ですが、調査対象や時期によってばらつきはあるものの、日本人では大体3〜5割くらいになるようです。 だったらもっといてもよかったはずなんですが、皆さん空気を読んだんでしょう・・・葬儀の場だし。
 
そんな私ですが、決して宗教をないがしろにしているわけではありません。
自分のお寺さんのところには新年とお盆(盆一日と13日の墓参り)にお布施を持って必ず顔を出します。 また毎年、崇敬神社の神主さんに新年清祓をお願いしています。最近は地元の氏神神社のお世話役もやり始めました。

 

 



そうしていながら「あの世はない」だけでなく「霊魂はない」「神も仏も実在はしない」と思っているんですが、そこに矛盾は感じていません。
 
比べたら失礼なのかもしれませんが、例えばグッズやフィギュアを集めたりコスプレするほど好きなキャラクターがいたとしても、そのキャラが「実在」していると思っている人はいないでしょう。アイドルだってまあ似たような存在。 それをちゃんとわかっていながら人はキャラやアイドルを好きになり、中にはバーチャルアイドルと結婚式を挙げる人もいます。その人の心の中には間違いなくアイドルは「存在」し ているのでしょう。
私の中での宗教もそれに近い。

そもそも宗教が生まれた理由ですが、

@ 自然災害・生き死に・病気・運命など、どうにも納得できないことには何らかの超越的存在が関わっていると思った
A だったら願望をかなえたり身を守るためにも超越的存在にすがりたい
B 死んだら終わりじゃ死にきれない。だから肉体と魂は別物と考えた
C いつか死ぬことを踏まえ、生きる意味を知りたいと思った
D 集団を統治する道徳や規範は「神からもたらされたもの」だと言うと人々も納得して受け入れた(特に一神教)


あたりかなと思います。

日本の場合、信者が多いのは「神道」と「仏教」ですが、神道はご先祖様や昔の偉い人などが我々を守ってくださると考える祖霊信仰で、@〜Bの要素が強い。

一方仏教は本来

・どうすれば人は苦しみから解放されるのか
・意義ある生き方は何か
・幸せに生きるには日々何を実践すればよいのか


など探求してゆくもので、どちらかと言えば哲学に近い。上で言えばC中心。

でも仏教は世界各地に広がる間に他の宗教の要素が混ざったり、日本に伝わってからも神道とくっついたり引き剥がされたりしてきたため、今はおおむね

お寺・・・葬式・墓・お盆・年季
神社・・・初詣・七五三・結婚・祭り・祈願・お祓い

と棲み分けていますが、本来の成り立ちで考えるなら 「葬式は神社が受け持つべきじゃないか」 とか 「お寺は本業のカウンセリング・セラピーにもっと力を入れるべきじゃないか」 とか思うんですけどね・・・今更ですけど。

ではなぜこんな風に宗教がどんどん形を変えていくのかと考えると、それは今伝わっている「教え」が「公式」ではなく「二次創作」だからじゃないかと思います。

イエスの教えは新約聖書、釈迦なら数多くの経典がその根拠になっていますが、どちらも本人が直接書き記したものではない。弟子達が記憶を頼りに「あのお方はこう だった」とまとめたものです。
また、直接教えを受けた人もいなくなると自分なりに解釈した経典がどんどん増えていきます。その一つ一つは偉い人達が命を削る思いで書いたのでしょうが、例えば「意義ある生き方」に対する考察結果は人それぞれだから、
「こっちの経典の方が優れている」
とか
「お前の解釈は間違っている」
と仲間同士でも意見が分かれ、ついには一緒にやっていけないと袂を分かつこともおきます。これがいわゆる宗派ですね。

これがアニメだったら「原作」や「公式」があり、その世界観から極端に逸脱した二次創作を作ると時には面倒なことも起きるのである程度の節度は守られると思いますが、宗教はやりたい放題の世界。極端に言えば人の数だけ宗教がある。

私はそんな立ち位置なんで、仏壇と神棚が並んでいても変だとは思いません。

仏壇・・・直接のご先祖様と生き方担当
神棚・・・この地に住んでいる人々の幸福担当


とイメージしています。

とまあ今回は身も蓋もない話になっちゃいましたが、人は何らかの虚構(フィクション)を信じることで地球を支配した生き物。あの世は理屈の上では存在しない(≒証明できない)と考えていても、心の中では大切にすることで今の生き方を良くできるなら、それもいいかなと・・・。

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追記

・神道と仏教が共生してきた歴史は、例えば「神仏習合(本地垂迹説)」「寺請制度」「廃仏毀釈」などをキーワードに調べていくと面白いです。

・釈迦はあの世とか霊魂については「無記」、つまり「そんなことを考えるより、もっと大事なことに目を向けて修行しようよ」という立場を取っています。 そのためもあってか、霊魂の存在を肯定/否定するかは宗派によってかなり見解が違っています。
 
・念のため書いておきますが、本来二次創作は勝手にやってはいけないもの。アニメやゲームなどの世界で無許可の二次創作が数多くあるのは「公式」側にもメリットがあって目こぼししているからでしょう。

 



32.
デザインとアートの間・・・17/12/01
先日、次男(大学3年)が制作したロールプレイングゲームが「ふりーむ!」に投稿・掲載されました。中味はいわゆる「剣と魔法によるヒロイックアドベンチャー」です。
フィールドの素材や音楽などはフリーに使えるものを借りていますが、彼はマンガが描けるので、主要キャラや数十匹のモンスターは全部自分で描き起こしています。

私もパソコンに落としてやってみましたが「ちゃんと面白い」のでびっくり。 寄せられている感想も「ストーリー性がある」「キャラが魅力的」と高評価です。

制作中の様子は時々覗いていたのですが
「素人が初めて作るゲームだし、おままごとに毛の生えた程度だろう」
と軽く見ていましたわ。

また、例え一つのゲームでも、その中には彼が今まで学んできた知識やスキルだけでなく、価値観・人生観まで反映されていたのは親として新鮮な収穫でした。

公開されて10日ほど経った頃、彼に聞いてみました。

「何人かが感想を書いてるね」
「それはもう、喜びます」
「ダウンロード数は?」
「今の所400くらい」
「もっとたくさんの人にやってもらいたいと思ってる?」
「もちろん。でも自分のツイッター以外に宣伝手段がない」
「お父さんのサイトで紹介したら上乗せできるかもしれないが、親子だってばれるしな。自然に任せ、無理に宣伝しない方がいいと思うよ」
「そう思う」

またその後彼のツイッターを見たら(※)

「俺のゲームをやってくれた人には”時間を無駄にした”とは思われたくなかった。だから後味の悪い終わり方にはしなかった」

とか

「やる人に楽しんでもらうことを優先して、自分が本当に作りたかったものとは違う部分もある」

みたいな事を書いています。

※アドレスは本人が教えてくれました。「時々見に行くこともあるが気にするな。好きなこと書けばいい」と伝えています。

この発言にもちょっと驚きました。その理由は彼の頭の中に「デザイナー思考」を感じたからです。

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私自身の仕事の一つに製品デザインへの関わりがあります。そんなこともあってデザインとは何かを考えることが多い。

デザインと言うと「かっこいい」とか「美しい」ものを考え出す仕事と思っている人もいるかと思いますが、それはデザインのごく一部の要素でしかありません。 なぜなら多くの商業デザインはデザイナーがクライアントから依頼されることで発生するからです。

クライアントはなるべく低いコスト・高い生産性・短い納期でモノを作り、なるべく高い価格で売って儲けたいと思っています。 デザイナーはそれを理解した上で作業を行いますが、デザイナーはもともと「最高のもの」が作りたい生き物ですから、クライアントから出される制約はデザイナーの仕事を邪魔する方向に働きます。 そんな中でも仕事は仕上げなければなりません。だから出来たものはデザイナーが本当にやりたかった姿にはならないのが普通です。

でもクライアントの願いは「良く売れて儲かること」ですから、商品が市場に受け入れられた場合、「デザイナーは良い仕事をした」と言われます。 つまりデザインとは「どうしたら他人に受け入れられるか」を考え、それを多くの人が納得できる形に持って行く行為です。

これと逆の立場にあるのがアートです。

アーティストは
「とにかく俺はこれが表現したいんじゃ!」
と思って自分から動きだすもので、それを他人がどう感じるかは第一義(根本の意義)ではありません。
人がどう感じるかに優劣はないので、アートにも優劣はないはずです。

ただし両者にはっきりとした線引きはありません。 例えば一部の超高級時計や有名なファッションブランド製品などは多くの人を対象としたものではなく、その良さがわかり、使いこなせる一握りの人のために金に糸目をつけず生み出されます。ここまでくるとアートに近くなってくる。

逆もあるでしょう。例えば美術館の中庭に置くオブジェが必要という事で、美術館側がイメージに「ふさわしい」作風を持った芸術家に制作を「依頼」したような場合、それは果たしてアートと言えるのでしょうか。

話を戻しますが、今回のように個人がフリーゲームを作って公開する場合、きっかけは
「とにかく俺はこれが表現したいんじゃ!」
のはず。だから基本的にはアート側からのスタートです。

それが誰からも認められないとしたら寂しいので、ある程度のデザイナー視点は必要ですが、普通個人が趣味で作るものは
「アーティスト視点:デザイナー視点=70:30」
くらいじゃないでしょうか。

でも次男のものは、私が見る限り
「アーティスト視点:デザイナー視点=50:50」
だったんですね。

それが先ほど書いた「驚き」の理由です。

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ちなみに個人がプラモを作ってみんなに見てもらう行為はどうなんでしょう。上の表で水色にしたところが私の判断ですが、こうやって眺めると
「アーティスト視点:デザイナー視点=60:40」
くらいになるのかな。

プラモはもともと「デザイン」された対象物を縮尺して再現するものですし・・・。

 

31.”幸せ”の採点基準・・・17/03/05
フィギュアと言えばここを見ている”ご同類”の認識は「人物やキャラクターのミニチュア(萌え〜)」でしょうが、一般的には「スケート」ですよね。
 
では何でフィギュアスケートと言うか、それは「リンクの上に図形(フィギュア)を描くように滑る」からです。そして審査員が「リングに描かれた模範図形を上手にトレースできたか」とか「その時の滑走姿勢が正しいか」などを見て点数をつけます。

「そんなことやっていないじゃないか」
とおっしゃるかもしれませんが、昔はこの「コンパルソリー」が重視されていて、それに「フリースタイル」の点数を加えて順位が決まる仕組みだったんです。

何で今やっていないか。それはコンパルソリーは地味で観客も呼べないし、テレビ放映にも馴染まない。だからスポンサーが好まないから・・・かな。

札幌オリンピック(1972年)の影響もあったはずです。  
札幌で金を取ったのはベアトリクス・シューバですが、何と彼女のフリーは7位。コンパルソリー1位の貯金で逃げ切ったのでした。
高校生だった私もテレビで見ていましたけど、確かにシューバのフリーは面白くもなんともなかった。

フリー1位はジャネット・リンでした。彼女はコンパルソリーが不得意で(4位)結局銅メダルに終わりましたが、ジャンプしてもかわいい、転んでも笑顔がかわいいと一躍人気者になったのです。

「ルールはルールだけど、何かすっきりしない。我々観客の中での金はジャネット」
の声がコンパルソリー廃止の後押しになったと思います。

このように採点ルールが変わってしまう理由、それはフィギュアや体操などの演技スポーツは人が優劣を決めているからです。演技レベルをきちんと審査できるのはそのジャンルの専門家だけでしょうけど、一般の素人はそこに異をとなえたくなる。
それは一般人が演技を「感動」で評価しているからです。「感動」というあやふやな要素は数値化しにくいため、専門家と素人双方が満足するルールを作るのが難しいのだと思います。

逆に審査員の斟酌を考慮しなくて良いスポーツもあります。100m走は0.01秒でも先にゴールした方が勝ちですから判定は機械でも行えます。またサッカーは1点でも多くゴールした方が勝ちです。だからこれらのスポーツでは「審査員」ではなく、ルール違反を監視する「審判」がいるだけでOKです。


話を整理するとこうなります。スキージャンプのように記録と採点がミックスされるものもありますが、基本は三つ。
 
・記録競技・・・速さ、高さ、飛距離などを競い、良い記録を出した人の勝ち
 
・対戦競技・・・直接相手と対戦して打ち負かした方が勝ち
 
・採点競技・・・演技を審査員が評価し、一番高い点数を得た人の勝ち

競技数の割合は、私なりのカウントでは「記録:対戦:採点 = 5:3.5:1.5」くらいです。


さてスポーツはこんな感じですが、私達の生活の中にも競技的要素はたくさんあります。

受験や資格・・・記録競技
 大学入試、国家試験、簿記、Toeicなどはテストの点が高い方が良い。

シェア争い・・・対戦競技
 ライバル企業と競い合い、自分の強みを活かしながら相手の弱点を攻める戦い。

商売・・・採点競技
 ライバルより高性能で安価なものを作ったり、他店より「うまい・やすい・はやい」サービスができれば有利だが(記録競技・対戦競技)、最後は消費者の心を掴んだ商品・サービスが選択される。

異性にもてる、もてない・・・採点競技
 学歴、勤務先、年収、身長、体型など、数値化できる部分は記録競技。大抵はライバルがいるので対戦競技の要素もある。だが最後は会話が弾む、価値観が合う、見た目が良いなどが重要だから、総合的には採点競技。

出世・・・採点競技
 昇格試験や実績評価など記録競技的な要素もあるが、指導力や人徳、人脈で決まることが多い。

コンクール・・・採点競技
 映画、芸術、音楽、出版などで賞を受ける場合、表現技術の優劣や売上も大事だが、最後は審査員の心象で決まる。

他にも色々ありますが、こうやって思いつくものを並べていくと一般社会では採点競技が多いなと感じます。
「受験」や「シェア争い」などの記録競技、対戦競技は負けた時にその理由を説明しやすいです。だから次はどうやったら上手く行くかの対策も立てられる。

しかし採点競技の場合は
「どうしてあんな子を選んだのよ!! 私の方がずっとかわいいのに!! ねえ、どうして? どうして?」
とか
「今回のコンクールの結果には納得がいかない。あんなヘタクソな絵が特選なんて。俺の方が絶対上なのに」
なんてこと起きてくる。上手く行かなかった場合に次の一手も見えにくいので、人はもやもやしてしまう。だからこそスポーツでは、すっきりと結果が決まる記録競技、対戦競技が主流なのかもしれません。
 

スポーツにしろ商売にしろ、ライバル相手に競争しているからには勝者と敗者が出てきます。そもそも人は皆幸せを求めて頑張っているのに、勝ち負けがつくなら敗者は不幸せになるのでしょうか。

これはものすごく難しい問題なので限られた字数で語りきれませんし、そもそも
「本人が幸せと感じていていればその人は幸せなんだから、他人からとやかく言われる筋合はない」
という考えもあります。

「ぼろは着ててもこころの錦 どんな花よりきれいだぜ(水前寺清子「いっぽんどっこの唄」) 的価値感ですね。

ただここまでの話の流れは「人生は採点競技」なので、「幸せ」についても納得性のある評価基準を設けてみたい。 そこで色々な人が書いたものを読んだり、私の周りの人を眺め、最大公約数的に次の10個のチェック項目を提示することにします。
 

○精神的・肉体的に健康である
 
○自分は価値ある人間だと思っている
 
○経済的に安定している
   
○将来の見通しが立っている
 
○よい仲間、よい家族がいる
 
○仕事が楽しい、やりがいがある
 
○周囲とうまくやっている
 
○家族や親しい仲間達も幸せである
 
○時間を自分でコントロールできている
 
○刺激のある趣味やライフスタイルを持っている
 

項目にたくさん○をつけられた人が客観的にも幸せなんだろう・・・とする考え方です。

なお、事前にピックアップした候補の中で、悩んで外したものが二つあります。理由は以下の通りです。入れたい人は入れてください。

○信じる宗教・哲学がある・・・「信じる者は救われる」は「自分が幸せと感じていていれば幸せ」に近く、客観性がないのでカット!

○恋人がいる・・・恋愛は自分のコピーを増やしたいとする遺伝子自体のプログラム発動で引き起こされた「一時的熱病」。また恋愛中のカップルが必ずしも幸せとは限らないのであえてカット!

と言うわけで、ピックアップした10項目を自分に当てはめると・・・、どっちか迷うものもありますが、8個以上でもないし4個以下でもない、こんな感じでした。

以上の考えが正しいのなら、もっと幸せになりたければ○をつけられなかった項目を一つずつ解決してゆけば良いのだと思いますが、そう簡単には行かないのが人生ですね。

ただ「幸せ追求」という「種目」が他と違うのは、誰かが勝てば必ず誰かが負けるものではなく、メダルの数に制限がないことです。  
特に
「周りの人が幸せだと自分も幸せ」
は普通の競技とは異なります。

まあ中には
「他人の不幸は蜜の味」
と考える人もいるかもしれませんし、自分もそういう暗黒面に陥る時がないわけではありませんが、そんな時はまだまだ修行が足りないと思うように努めています。

ちなみに10項目の中に
○刺激のある趣味やライフスタイルを持っている
を入れたのは、自分が有利になるためですから!



30.音楽にはまっていた時期もありました
・・・16/12/10
しばらく前のこと。たまたま用事があって近くの公民館みたいなところに行ったら、一室から弦楽アンサンブルの音が聞こえてきました。

「何!この街でもやっている人たちがいるんだ」

と思い、外に回って窓からそっと中を覗いてみました。バイオリン7〜8名、チェロ3名ほどが練習していました。

ヴィオラはいなかったように思います。

クラシック音楽に使われる弦楽器は主にバイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスの四つです。バイオリンやチェロは協奏曲も多いですし、コントラバスはジャズやポピュラーで使われることも多いので皆さんご存知かと思いますが、ヴィオラは あまりおなじみじゃないかもしれません。

ただ最も一般的な弦楽アンサンブルはバイオリン×2、ヴィオラ×1、チェロ×1の四人で構成する弦楽四重奏ですから、ヴィオラがメンバーにいないと多くの曲で完全な演奏はできません。



ヴィオラをバイオリンと並べるとこう。一回り大きく、音も低いです。


弾き方はバイオリンとほぼ同じですが、楽譜がハ音記号(アルト記号)で読み方が違う。

ヴィオラ弾きは大抵の場合、 バイオリンをやっていた人が必要に迫られて転向、または両刀使いになる場合が多いようですが、一人で弾ける曲が少ないこともありバイオリンやチェロよりも影が薄く、アマチュアの世界では人数を揃えるのに苦労する場合もあるかと思われます。

 

 

 

 

 

 

 

私は若い頃、この楽器を20年近くやっていました。誓って言いますが家が金持ちだったわけではない。
もともとは中学の時にブラスバンドをやっていて(パーカッション)、高校の時は剣道部だったものの、大学に入ったらまた音楽がやりたくなり管弦楽部に入団。色々ある楽器の中で人数がなかなか揃わないヴィオラを選んだわけです。
楽器の値段は当時の仕送りの半年分くらいはしましたが、親から借りて、その後バイトで返していきました。


大学を終えてからもOBで作ったオーケストラや市民オーケストラなどに参加して楽しんでいましたが、やめちゃったのは仕事が忙しくて練習に通えなくなったからです。

 



弦楽アンサンブルの練習を覗いた時は流石に心が騒ぎました。もう20年くらい触っていないけど、また練習を再開したらどうなるだろう。

「ヴィオラ、やってたんですけど」

とどこかのサークルに声をかけたら、

「何、ヴィオラとは。ぜひ!」

となる可能性もあるでしょう。

仲間と一緒に練習し、飲みながら音楽談義に花を咲かせ、演奏会に出てドキドキする・・・、またそんな時間を過せたら楽しいだろうな。


でもやっぱりやらない。

再開するならば以前はできなかったこと、あきらめたことに挑戦できなければ面白くないと思うのですが、音楽ではそのイメージが沸かないんです。趣味なんだからかまわないじゃないかと言われそうですが、好きだったからこそ楽しいだけでお茶を濁したくない。

では模型の方はどうか。

このサイトを毎日多くの人が覗きにきてくれたり、展示会に行けば私の作品を見に寄ってくれる人がいることからも、私の活動がどこかで誰かに喜んでもらえている実感はあります。
模型作りのスキルについては、私よりはるかに上手な人がたくさんいることを知っていますが、少なくとも私自身は現在も成長中。去年よりも今年作ったものの方が出来がいいし、来年はもっと良いものを作りたいと思っています。
やりたいネタも数多くあります。その中には新しいスキルが必要なものもありますが、それが身につけばさらに階段を一つ登れるんだろうと思います。

そんな風に考えると結論は明らか。
クラシック音楽はもっぱら聴くことで楽しんでいき、エネルギーの多くはこれからも模型に集中しよう。年から考えるとバリバリやれる期間はある程度限られていますし。



若い人は興味があるものには何でも飛び込んで行くことをお勧めします。私も色々やってきて、その全てが何らかの糧になっている実感があります。色々やらないと本当に好きなこと も見つからないでしょうし。
ただ、あらためて考えると模型は子供のころに最初にはまった趣味だった。それに気づくまで何十年もかかったのかもしれませんが。


29.半分は戻ってこなかった・・・
16/11/26

日本の人口は2010年前後をピークに減少に転じています。
その主な原因は出生数の減少ですが、平均寿命は延びているので、高齢者の数は増しています。
また子供と老人の間、つまり金を稼げる年齢層の人口(いわゆる「生産人口」:グラフで緑色の部分)も減少していきますが、経済的視点からは良い流れではないでしょう。

未来の人口は色々な対策で変わってゆく部分もあるかもしれませんが、おおむねこの未来は決められている。

私の仕事の中には商品企画とか市場調査などもあるので、
「10年後にはAという商品の市場規模は縮小するだろうな。大掛かりな設備投資はしない方がいいかな」
とか
「Bという商品は中高年対象だから、もうしばらくは食いつなげそうだな」
なんてことを考えるのは日常です。

 
何だかんだ言っても人口が増えている時代は去年と同じことをやっていても売上が上がっていく場合が多いです。
逆に人口が減っていく社会では、よほどのことをしなければ今年より来年、来年より再来年の売上は下がって行くはず。
となれば給料も上がる保証はないわけです。

私なんかはそろそろ「上がり」で、もうちょっとすると年金生活に入りますが、今の若い人は右肩下がりの社会の中で長く生きていかないといけない。なかなか大変だなあと思います。

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話し変わってもうすぐ12月8日ですね。

このサイトを見ている人の多くはカーモデルだけでなく模型全般にも興味があるでしょうから、12月8日と聞けば
「ああ、昔日本軍が真珠湾を奇襲攻撃した日だな」
って思う人も結構いると思います。

ここで大東亜戦争(太平洋戦争)、あるいはその前後に世界で起こっていた様々な出来事について多くを語るつもりはありませんが、あの時代がどれだけ大変だったかは 上のグラフの矢印の部分が異常値になっていることでもわかります。

もう少し詳しいグラフを作ってみます。下は世代別生存者数、つまりある時期に生まれた人たちが、その後どの程度”生き残っていたか”を示したものです。


 

本来各々のグラフは右下がりになるはずですが、ある世代の男性に「減って」「増える」という異常が見られます。

その理由はお分かりでしょう。

・減った・・・兵士として、あるいは海外移住者として日本を離れていた(人口にカウントされない)
・増えた・・・戦争が終わり、海外から戻ってきた
・その差・・・戻ってこれなかった(多くは死亡した)

だと思います。

兵隊として死んだ人のほとんどは男性ですが、女性でも減っているのは、先ほど書いた海外に移住して戻ってこれなかった場合に加え、空襲や病死なども考えざるを得ません。

いずれにせよ同期の仲間の半分が一時的に日本から消え、その半分が死んで戻ってこない・・・そんな時代があったことは忘れていけないと思います。

ただ戦争が終わってからの復興も目覚しかったですね。
グラフを見ても1946年から1950年に生まれた赤ん坊はその前の5年間に生まれた数を大きく上回っていて、あっという間に人口は回復しています(赤矢印)
死ぬ悲しみと同じ数だけ生まれる喜びがあった・・・。 そんな風に考えるのも「あり」なのかな。

※ちなみに太平洋戦争開始時の人口は7200万人くらいです。
「進め一億火の玉だ」などの戦闘意欲高揚スローガンがありましたが、当時は台湾や朝鮮も日本が統治していて、それも含めての一億だったからです。



28.ボクの将来の夢
・・・16/02/23

このサイトを開いた2000年当時、長男・次男はそれぞれ6歳と3歳でしたが、現在二人は大学4年と1年、どちらも工学部(建設方面と情報工学方面)です。長男は4月から修士課程に進むことが決まっていて、おそらく2年後には専攻の業界で仕事先を探すのだろうと思います。

二人とも国語・社会がやや不得意、算数・理科はまあ何とかって感じだったので自然と理系に向かったんですが、子供の頃からコンピュータや工作が得意だったわけでもない。 自ら進んでやっていたことは虫やトカゲやヘビと遊んだり、ゲームをしたり、漫画やアニメを見たり、スポーツ(長男:剣道三段)をしたり・・・。

ただ二人とも小さい頃からストーリー漫画を描いていて今でもそれを続けています。そこそこ上手いと思うし読むと結構面白いんですが、お金を取れるレベルではないです。でも自分からやるってことは根っから好きなんでしょうから、これからも続ければいいと思います。

子供の「将来の夢/やりたい仕事」調査結果などを見ると、

男の子・・・「スポーツ選手」「芸能人」「教師」「医者」「ゲームクリエーター」「大工」

女の子・・・「保育士」「看護士」「教師」「タレント」「ケーキ屋さん」「漫画家」「ファッションデザイナー」

あたりが上位に来るようですが、それはそういう仕事をしている大人に触れる機会が多く、イメージがつかみ易いからだと思います。
(20年くらい前までは女の子の上位に「かわいいお嫁さん」があったと思いますが、今は見かけないようですね。”かわいい”は余計だし)

世の中の仕事の多くは子供の目には触れないものでしょう。
例えば会社で「法人営業」を担当しているお父さん・お母さんは結構な数になると思いますが、その仕事っぷりを我が子が見ることはまずないかと思います。
私も子供の頃はお店で接客したり工場や現場で作業をしたり、あるいはオフィスで事務をするのが仕事だと思っていましたから、昼間に街を歩いているスーツ姿の人はサボっているんだと思っていました。

だから目の前の小学生が

「将来の夢ですか? 資産運用会社の証券アナリストなんか面白そうですね。セルサイドよりバイサイドが刺激的かなあ。力をつけて将来は独立もしたいです」

などと言い出したら親の影響とか、そういう仕事をしている人が身近にいるか・・・などでしょう。

そんな子供達も大人になるにつれて世の中に様々な仕事があることを知り、同時に小さい頃からの夢は簡単に叶えられないことを理解し、多くは現実的な選択をしていきます。

子供の頃から好きだったことを仕事にすべきか、すべきでないかについては双方良い面と悪い面があり、どっちかが正しいと決められるものではないと思いますが、特に漫画、音楽、映画、美術、ゲーム、アニメ、演劇、スポーツなどは、飛びぬけた才能を持った者が人一倍修行し、なおかつチャンスに恵まれなければ長く食べていくのは難しいだろうと思います。

ただし例えば映画配給会社や出版社、あるいは広告代理店など、才能ある者を支えながら事業に持って行く仕事(インフラビジネス)はある程度システム化されていますから、普通に就職先として考えても良いかと思います。 模型で言えば、例えばガンプラが好きなので将来バンダイに入って開発に関わりたいと思う夢は「無理筋」じゃないと思います。希望者は多いと思うので受かればの話ですが。

私も参加している「伝説のカーモデル同窓会連盟」メンバーの中にはミニカーのデザイナー、イラストレーター、自動車メーカーでエンジン設計・外装デザイン・整備マニュアルの執筆出版などを担当している (いた)人などがいますが、これも子供の頃の夢を叶えたと言っても良いかもしれません。ある意味羨ましいです。

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さてここに一通の手紙があります。見てわかるとおりタミヤからのもの。日付は昭和52年8月となっています。

私はこの年の夏、タミヤに

「入社試験受けさせてくれよ〜」

と手紙を書いたんです。

そもそもタミヤが新卒採用を行っているかも知らない中、とにかく自分の思いをしたためたんですが、返事は

「来年度の採用予定はない」

でした。 とても残念でしたが、そっちの道はすっぱりあきらめて趣味とは全く関係ない業種の会社に入る道を選びました。そこには今も勤めています。

あの時もしタミヤを受けることができ、そして運よく採用されたとしたらどんな人生を送ったんだろう。機械工学が専門だったし、もし入れたら一生懸命働いたんじゃないかと思います。
その後ラジコンカーレースや模型展示会などを通じてタミヤの社員の方(現・元)と何人か面識もできましたが、彼らを見るとどこかに「あー、羨ましい」と感じる気持ちは残っています。

人生はやり直せませんからこんなこと考えても仕方ないですし、今の会社に入ってからの年月も充実していたと思っていますが、時々そんなことが心をよぎることはありますね。

ちなみに手紙を送ったのは三社ですが、他の二社からは何の返事もありませんでした。

二社はその後廃業・活動休止になっています。 それはどこかって? ここまで書いたのなら言っちゃいますが大滝と日模です。

 

 

 

 

 

 

 

27.小学生だった頃の生活水準・・・14/11/22

買って4年目の洗濯機の調子が悪くなりました。
しばらくだましだまし使っていましたが、我慢できずに修理を頼んだところ基板取り寄せが必要な不具合とわかり、次の修理まで2日間 洗濯機が使えませんでした。
仕方ないのでその間は「自分の洗濯物は自分で手洗いすること」にしたわけですが、面倒くさかったです。
特に次男は生まれたときから洗濯は洗濯機がするものと思っていますから、ある意味良い経験になりました。

それから一ヶ月も経たない今週、今度は買って2年の追い焚き給湯器の調子が悪くなりました。
リモコンを入れてもすぐ電源が落ち、風呂のお湯はりもできません。まだ真冬じゃないけど洗い物は冷たいし、お風呂に入れないのもきつい。銭湯も考えましたが私の家の近くに普通の銭湯はなく、一番近い「何とか健康ランド」 に行くにも車で30分くらいかかります。
昔だったら近所にお風呂を借りに行くなんてことも考えたんだろうけど、今はちょっとね・・・。
その夜はガスコンロで何度もお湯を沸かして浴槽に入れ、何とかしました。
翌日故障は直りました。原因は給湯器本体ではなくリモコン通信ケーブルの腐食。14年使った前の機械を入れ替えた時、ケーブルはそのまま利用していたんです。

それにしてもこういう生活家電、設備が壊れると、毎日この機械にどれだけお世話になっていたかが身に染みます。

でも私が小学校低学年の頃(昭和30年代半ば)はどうだったろう。その頃は吉祥寺の社宅(木造の集合住宅で10世帯くらい入居)に住んでいましたが、思い出してみるとこんな感じです。
 
洗濯・・・家には洗濯板があった。洗濯機は最初住民共同で使っていたと思う。各世帯に入ったのはおそらくずいぶん後
給湯器・・・もちろんなかった。ガスコンロだけ
風呂・・・木でできた家庭用浴槽が社宅に一つだけあって、順番に声をかけあって入っていた。その後撤去され、みんな近くの銭湯に行くようになった
 
洗濯機や風呂を共同で使えたのは、社宅でみんなが顔なじみだったからでしょうね。
 
あれは小学2年生ぐらいの時だったかな・・・、ある休日の朝、ちょっとしたことで親とけんかになって「プチ家出」したことがあります。
午前中は近所をうろうろし、時々親が私を捜しているのを遠くから見つけて「ふん!」なんて思いながら身を隠していましたが、朝から何も食べていないものですから午後になるとお腹が空いてどうにもならない。
うずくまってボーっとしていたら、同じ社宅の人が私を見つけて部屋に入れてくれました。その時ご馳走になったトーストの美味さは今でもよく覚えています。その後もちろん親が来て連行されましたが、社宅ってそういう付き合いだったです。

(写真は社宅の前で撮ったもの。一番右が私。昭和37年くらいでしょうか)


 
話しを戻します。

ストーブ・・・なかった。火鉢だった。途中からガスストーブが入った
ラジオ・・・あった。5級スーパーとかいうやつ
テレビ・・・街頭テレビを見た覚えがある。家に入ったのはミッチー・ブームによるテレビの普及拡大のしばらく後だったから、昭和36年くらいだと思う。カラーテレビは中学の途中
冷蔵庫・・・これも小学校の途中だったような
外食・・・年に何回あるかどうかの特別なイベント。出前(ラーメン)もお客が来た時などだけ
豚肉・・・嫌いだった。脂身が多くて、まずかった記憶しかない。そんな肉しか買えなかったんだと思う
牛肉・・・食べたことない
鯨肉・・・家では時々缶詰のものを食べた。学校では給食に良く出た
・・・肘や膝に”つぎあて”するのは普通。セーターやチョッキは母親の編機による手作り(内職もしていた)

と言うわけで、昭和30年代って生活が日々どんどん変わって行った時代だったんだなと思います。

ただ、全員の生活レベルがいっせいに良くなったわけでもなかったはず。
クラスの中には、自宅がまさに「蔦の絡まる洋館」だった奴もいたと思えば、「え?」と思うくらい質素な家に住んでいる人もいました。私の家も決して裕福だったわけではないけれど、その私がびっくりするくらい家財道具もほとんどない家でした。
当然ながらお金持ちの子と(おそらく)貧乏な家の子では着ている服もずいぶん違っていましたが、ただそれは今思い出すとそうだったなーと思うだけで、みんな仲良く遊んでましたよ。
 
小学校の途中で女の子が転校してきて、一躍クラスのヒロインみたいになったことがあります。
「転校生」・・・それだけですでに一種の認知バイアス(あるいは「ハロー効果」)がかかっていたのかもしれませんが、なんか見ていてまぶしく感じました。
でも今あらためて卒業アルバムを見ると、特別かわいいって程でもない。
そういえばあの子はいつも着ている服がちょっとオシャレで清潔でしたね。いつもヘアバンドとかつけてたし。

またまた話しを戻して銭湯ですが、入浴料金は大人が三十数円、小学生の私は15円くらいって記憶が残っています。あの当時は洗髪すると追加料金が必要だったんですが、それを入れての値段です。
当時としても高かったせいか、毎日銭湯には通っていなかったですね。夏で一日おき、冬などは2日おきくらいだったかもしれません。回りもだいたいそうだったと思います。

そんな時代だったから、人々は今より”体臭”がきつかったかもしれません。また商店街にある小さな店にも今ほど冷蔵・空調設備などなかったから、魚屋、総菜屋、パン屋、焼き鳥屋・・・それぞれの店が下ごしらえや調理をしていたこともあってか、独特のニオイを出していた。
街中のゴミ箱にもゴミがそのまま入れられていたし、そういうものが集まったのが「昭和30年代の懐かしいニオイ」だったんじゃないかと思います。

洗濯機と給湯器、今日も快調に仕事してくれています。

 


26.
王位を簒奪したばかりか、この宇宙に殺戮と恐怖を・・・14/11/15

比較的最近の映画の中で、期待していなかったのに見たら意外と「儲けもの」だったのが「アイアン・スカイ」。
いわゆる”おバカSF映画”なんですが、ナチスドイツとアメリカが思いきりいじられていて、よくもまあこんなものを作れたなあと感心しました。

アイアン・スカイはフィンランド・ドイツ・オーストラリア合作で監督もフィンランドの人。
フィンランドと言えば
「森と湖」
「ノキア」
「サウナ」
「サンタクロース」
「ミカ・ハッキネン」
「ムーミン」
あたりがイメージされると思いますが、音楽では「シベリウス」が有名ですね。
シベリウスの「フィンランディア賛歌(第二の国歌とも言われる)」が作られるきっかけとなった「冬戦争」「継続戦争」(ソ連が相手)、またその後の「ラップランド戦争(ドイツが相手)」などを調べて行くと、ナチスドイツに対するフィンランドの感情はどうなんだろうか、などもつい考えてしまいます。

もし興味を持ったならDVDでもレンタルしてご覧ください。ただし笑いどころで反応するには歴史や映画について若干の知識が必要な場合もありますし、毒も強いので好き嫌いは分かれるでしょうから自己責任で。

 

そんなことを書いていたら、もう一つ思い出した映画がありました。東映のSF大作「宇宙からのメッセージ」です。

「宇宙からのメッセージ」は1978年のゴールデンウイークに公開されました。東映はもともと時代劇に強い会社ですが、あの当時は時代劇よりも「仁義なき戦い」「トラック野郎」「緋牡丹博徒 」などの任侠・ヤクザ映画、あるいは千葉真一や志穂美悦子らを使った格闘映画で稼いでいました。

そんな中、1977年にあのスター・ウオーズ(エピソード4)や未知との遭遇がアメリカで大ヒット、翌年には日本でも公開されることが決まり、「こりゃ日本でもSF映画ブームが来るぞ、乗り遅れるな」となった時に東映の出した答えが「宇宙からのメッセージ」、東宝は「惑星大戦争」だったわけです。

当時のSF映画の動きを時系列的にまとめるとこうなります。

1977年    5月 スター・ウオーズ  アメリカ公開
         8月 劇場版アニメ「宇宙戦艦ヤマト」が公開されヒット
            11月 未知との遭遇  アメリカ公開
            12月 惑星大戦争(東宝)  公開
1978年    2月 未知との遭遇  日本公開
              4月 宇宙からのメッセージ  公開
              7月 スター・ウオーズ  日本公開 

結果的に二つの日本映画がどうだったかと言いますと、それなりに観客を動員できたとか、SFなので海外展開できたとかはあったものの、客観的に見れば「惑星大戦争」は自爆、「宇宙からのメッセージ」も惨敗だったと言えるでしょう。
なぜそう言いきれるか。だって今、スター・ウオーズは誰もが知っているけど、「宇宙からのメッセージ」や「惑星大戦争」と聞いて「ああ、あの映画ですね」と答えられる人はマニアくらいでしょ。そういうことです。

ここを見ている皆さんの多くもこの二つの映画を知らないでしょう。だから内容について語ろうとしても困ってしまうのですが、例えば「宇宙からのメッセージ」の場合は

俳優・・・ビック・モロー 千葉真一 志穂美悦子 真田広之 成田三樹夫 その他仁侠、アクション、時代劇映画の俳優多数
監督・・・「仁義なき戦い」「柳生一族の陰謀」の深作欽二
エキストラ・・・時代劇の斬られ役やJACのアクション俳優多数。 撃たれたり爆発に巻き込まれたらトンボを切るのもお約束
衣装・・・仮面ライダーなどのスタッフ(東映練馬撮影所)も全面参加

と書いてゆけば、見なくても大体どんな作品になったかは予想されるんじゃないでしょうか。雰囲気的には
「仁義なき星間抗争 ジルーシア死闘篇」
てな感じでしょうか。

例えば物語の後半で千葉真一(ハンス王子:役回りはルークとかオビワン、あるいはロード・オブ・ザ・リングのアラゴルンっぽい)と成田三樹夫(敵の総大将ロクセイア:ダースベイダーと言うより地獄大使っぽい)の決闘シーンでの千葉真一の台詞が泣かせます。

「おのれロクセイア!  我が父母を殺し王位を簒奪したばかりか、この宇宙に殺戮と恐怖をもたらした張本人!  その罪、万死に値する。 死ねぇぇい!!」

私ね、この映画で簒奪(さんだつ:本来君主になる資格のない者が武力や卑怯な手段で君主の地位を奪取すること)って言葉を知ったのね。
 
例えは悪いですけど、老舗の日本料理店の近くにステーキハウスができてお客を奪われた。そこでこちらも敷地内に(なぜか)高級フランス料理店をオープンすることにしたものの、日本料理店の板前や仲居さんが準備期間もなしにコックやウエイトレスをやることになったらどうなるかと。
店の造りは一見それ風なのに、入ったとたんに「四名様、奥の間にご案内〜」と言われたらどうしましょう・・・。そういう「やっちゃった感」満載なのがこの映画なんです。

ただしこの映画、実は結構好きなんですよ。そうじゃなければ小遣いから大枚はたいてDVD買ったりしませんもの。
特撮は結構頑張ってるし(アカデミー賞の特殊効果部門にノミネートされた)、南総里見八犬伝がモチーフになっているストーリーも魅力的。もし企画から完成までにもっと時間をかけていたら、あるいは仁侠映画や時代劇のお約束は頭から消して、SF映画の世界観をもっと丁寧に描いていたらとつくづく残念に思います。

スペースオペラはもともと嘘の世界。そこに観客を引き込んで、その世界なりのリアルワールドを作り上げることができたのがスターウオーズ。お芝居なんだからと世界観にまで気が回らなかったのが「宇宙からのメッセージ」。
そんな残念な面が多々見られる「宇宙からのメッセージ」ですが、何度も言うように、私、このこの映画が結構好きなんで、今回書いちゃいました・・・。

 

日本のSF映画と言えば、大抵の場合オリジナル大作は失敗しますね。そこでというわけではないでしょうが、往年のアニメを実写化する例が多くなっていますが、これもほとんど成功した試しがありません。
「デビルマン」「キャシャーン」「ヤマト」・・、そして最近では「ガッチャマン」。 ギリギリ認めるのは深キョンが第52回ブルーリボン賞 助演女優賞を取った「ヤッターマン」かな。

こういうもの(「ヤッターマン」以外)を作った監督や脚本家に言ってやりたい。

「おのれ●●! 原作を蹂躙したばかりか、映画界に失望と哀哭をもたらした張本人!  その罪、万死に値する。 死ねぇぇい!!



25.アナ雪、見たんだけど
・・・14/10/3

大ヒットしたアニメ映画『アナと雪の女王』ですが、結局映画館に行くことはなかったものの、先日DVDを借りてきて家族4人でしっかりと観賞させていただきました。

と言っても、おおむねのストーリーや巷の評判などは嫌でも耳に入っていましたから、「予想と実際に見た印象に差があるのか」、あるいは「大ヒットが納得できるほど素晴らしい映画と言えるのか」が個人的な興味の中心でした。

絵はとても綺麗でしたね。声優も上手だし、全体としては水準の高い作品でした。でも個人的には「参りましたぁ」と唸るほどの傑作とまでは言えない。ちょっと古いですが『ヒックとドラゴン』の方が数段良かったです。

アナ雪が特に日本で大ヒットした理由は色々あるんでしょうけど、『Let It Go〜ありのままで〜』を丸ごと事前公開してのプロモーションが決定的だったでしょうね(25ヵ国語バージョン含め)。

「ああ、もっと自由に、自分らしく、ありのままに生きたい」という思いが込められた歌詞が人々、特に日々のしがらみやストレスなどを抱える女性達の本音に共鳴して「日本全国レリゴー祭り」になってしまった・・・あたりが解釈の落ち着きどころだと思います。

 

触れたものを凍らせてしまう能力を持つエルザ(姉)はその力がばれないよう、なるべく周りの人とはかかわらずに生きてきました。王女なので無理に働かなくても良い立場とは言え、外から見ればエルザはパラヒキプーに限りなく近かったと思われます。

隠していた力が白日の下に晒されたエルザは冷静さを失い、国全体を凍らせた挙句「レリゴー、レリゴー」を歌いながら北の山に氷の城を作って閉じこもるわけですが、原語の歌詞、あるいはストーリーの流れを見れば歌の趣旨は明らかに、

ああもう! 隠していた力がばれちゃったじゃないの!アナのせいよ。こうなったら氷の城を作って引き篭もるから、もう金輪際誰も私に連絡しないでちょうだい! 私に関わらないで!!

ですよね。早い話がパラヒキプーのパラが取れてヒキプーになっただけ。

でも日本語の歌詞(松たか子さんの劇中歌※)はどうもニュアンスが違う。「もっと自由に、自分らしく、ありのままに生きたい」という前向きさが感じ取れます。

私の知り合いにも
「あの歌が早い段階で出たのにちょっと驚いた。もっと後半、色んな問題に解決の兆しが出るあたりで歌われるのかと思っていた」
と言っている人がいましたが、私も同様の違和感を感じました。

※『Let It Go〜ありのままで〜』にはMay J.さんが歌うバージョンもありますが、あちらは歌詞が一部異なり、さらに前向きなものとなっています。これは劇中歌じゃないので、私はOKです。

また、そもそもエルザ(姉)が城を飛び出したのはアナ(妹)が他国の王子(ハンス・・・実は悪い奴)と恋に落ち、たった一日で結婚を決めるという無茶振りに引っ掻き回されたのが原因。
アナ、どんだけ能天気なのか。自分で下手こいたんだから落とし前も自分でつけるしかないよね。後半の活躍もある意味自業自得でしょ。 でも実際問題として氷の城に閉じこもったならエルザは食糧をどうやって調達するんだろう、今までは上げ膳据え膳だったのになあ。ほっといても3日くらいで音を上げてお城に戻るしかないんじゃね? 
・・・などと、見ている間に色々な思いが脳内を駆け巡り、落ち着いて見ていられなかったのも正直な所です。

 

アナ雪に限らず古今東西のおとぎ話の王道は、こんな流れだと思います。

美しい女性がいる → 困った状態になる → その問題の解決にイケメンが絡む → 問題は解決し、姫とイケメンは結婚して幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし

アナ雪の場合、この王道に則っているのはアナの方。では今後エルザはどうやって生きてゆくのかが心配になりますが、エルザの能力が王国民に受け入れられたのだとすれば、国の経済に貢献する生き方を選ぶのが一番かと思われます。
今後は苦労して湖から氷を切り出さなくても魔法を使えば生産能力は飛躍的に高まるし、夏でも氷ができるので「魔法氷」あるいは「女王アイス」などとブランド化して外貨を稼ぐのもいいですね。

また領地の一部を凍らせて、夏にも橇遊びができますよと宣伝すれば観光客誘致もバッチリ。氷切り出し職人の多くは仕事を失うだろうが、それは何とかすれば良い。 これによりエルザはパラでもヒキでもプーでもなくなる。
おそらく結婚は無理だろうから、これからはシングルビジネスウーマンとして世の中の役に立つ人生を送る。それが彼女の「自分らしく、ありのままに生きる」ことかもしれません。

私はそこまで描いてこそ「めでたしめでたし」だと思いますが、多くの人はそんな後日談は見たくないでしょうね。ファンタジーなのだから。
私はもしかしたらこの映画を心底楽しめるほど心がピュアじゃない、いやピュアじゃなくなったのかもしれない。それだけ歳を重ねたのかなあ。

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ちなみに「アナと雪の女王」とアンデルセンの童話『雪の女王』はストーリーの点ではほとんど無関係ですが、原作を活かしてアニメ化した作品としてはロシア映画『雪の女王(1957年)』があり(※)、宮崎駿さんがこれに強い感銘を受けて『太陽の王子ホルスの大冒険(1968年)』などができたって話はご存知の方も多いでしょう。 でもその二つの映画を見ている人は少ないはず。

※2012年版もあるのですが、今回は触れません。見てないので。

私の場合、『太陽の王子ホルスの大冒険』は公開時には見ていなかったけど、その後評判を知ってレーザーディスク(何物だ)を買いました。
ロシアの『雪の女王(1957年)』もその頃に知り合いからレーザーディスクを借りて見ています。

どちらも古いので今見るともの足りない面もあるかもしれませんが、二つとも大好きです。

ジブリ作品のいくつかは今後も傑作の評価は揺るがないでしょうし、これから生まれる世界中のアニメにも何らかの影響を与え続けるでしょう。
その宮崎さんが強く触発されたと言う「雪の女王(1957年)」と今回の「アナと雪の女王」のどちらが映画史に残るかにはちょっと興味がありますね。 20年くらい先には結論が出るでしょう。

 

・・・って書いていたら、久しぶりに無性に『雪の女王(1957年)』が見たくなっちゃいました。
どうせならと『太陽の王子ホルスの大冒険(1968年)』と併せてDVDを購入。

会社の同僚や近所の人と「アナ雪」の話が出た時、私のこんな思いに興味を持ってくれる人がいたら、いつでもお貸しできるようにと思ってます。

 

 

 

 

 

 



24.ボカロ、わからんから聴いてみる
・・・14/09/23

高校生の次男が普段ボカロを聴いていて、気づいたらCDも結構持っていると言うので、ちょうど彼が友人から借りていたCDも含め十数枚を車のHDDにどんどん落とし込み、運転中にシャワーのように流すことにしました。

それまでボカロに対する知識と言えば、初音ミクや鏡音リン・レン、あるいはGUMIなどが代表的なボーカロイド(イメージキャラクター)であることや、最近は小林幸子が千本桜などをカバーして、流石の上手さに「ラスボス降臨」などと話題になっていることくらいは知っていましたが、まあせいぜいその程度。

基本的なこと、例えば「ボカロPって何する人? どうやって儲けてるの?」「feat.(フィーチャリング)ってどういう意味?」など、知っている人からみたら当たり前の知識もなかったので、いちいち子供に教えてもらっている始末です。

それでもシャワーのように曲を聴いているうちに、だんだん自分なりに見えてきたものがありました。


歌詞が聞き取りにくいものが多いなあ・・・

ボーカロイドの音声は実際の歌手の声をサンプリングしたものを活用しているんだそうですが、大抵の場合非常に歌詞が聞き取りにくいものが多いと感じます。

理由は色々考えられます。

○技術的な側面?
・・・これはもちろんあるんでしょうけど、理由の一番とは思えない
○わざと音声を加工しているので、結果的に聴き取りにくくなっている?
・・・一部の曲は故意に電子音的に加工しているものもありますし、生身の人間にはとても歌えないような早い節回しのものもありますが、それは全体の一部
○携帯プレーヤーで聴くのが主流と思ってチューニングされている?
・・・携帯プレーヤーなら外部からノイズが入りにくいので、車の中で聴くより有利。でもこれも大きな理由ではないでしょう
○加齢により私の聴き取り能力が落ちている
・・・これはある程度あるかと思います

とまあ色々理由を挙げてみましたが、なぜ歌詞が聴き取りにくいかの一番は、おそらく多くのボカロPさんたちがボーカロイドを楽器の一つとして活用しているからではないかと思います。
 
普通の歌ですとメインは歌手で、その他の楽器は歌手の歌を支える伴奏です。全体の情報量のバランスから言えば、歌手:楽器=7:3くらいが一般的なイメージでしょうけど、ボカロの場合はボーカロイドは数多くある音源の一つと言っても過言ではない。
またどんなにアレンジしてもボーカロイドはボーカロイドですから、その声ばかり強調するとあまり面白いものになりにくいため、どうしても一歩引いた扱いになる。
それが歌詞を聴き取りにくくしている原因の一番ではないかと思います。 ボーカロイドの代わりに生の歌い手が歌った曲もありますが、歌詞もわかりやすく、オリジナルより心地よく感じられるものも結構あるなあと感じます。


一人でも歌入りの曲を作れ、それを発表できるってすごいことだね

そもそも音楽を他人に聴いてもらいたい、あるいはそれを仕事にしたいとなると、昔なら教会や特権階級にくっついてお抱え音楽家になる道もありましたが、ベートーヴェンあたりからは劇場で市民相手にコンサートを開くことで生計が立てられるようになり、さらにレコードやメディアなどの録音・拡散手段が生まれると、放送メディア、レコード会社、映画制作会社、広告代理店、作詞家、作曲家、楽器演奏者、歌手などの集合体による大きなビジネスになります。

フォークのように自分で作詞作曲までやるケースもあるけれど、一つの曲を世に出そうとすれば多くの専門家が集まらないとどうにもならなかったはずです。 シンセサイザーができてからは、楽器が弾けなくても一人で曲をまとめ上げることも可能になりましたが、「歌」だけはどうにもなりませんでした。
 
ところがボカロはその最後の障壁もなくしてしまいました。パソコンとソフトさえあれば、たった一人で歌の入った楽曲をまとめることができ、それをネットで発表することも簡単ですから、良い曲を作れる才能さえあれば全くの個人が今日からでも世界デビューできる仕組みが完成したわけです。

これはものすごいものだなあと思います。


その分、作品のレベルは玉石混交

曲を発表する敷居が低くなれば、生まれて来る楽曲の数は飛躍的に多くなります。中には素晴らしいものもあるでしょうが、取り立てて特長もない作品も人々の耳に触れることになります。

子供に借りたCD十数枚、一枚に15〜20曲ですからおおむね300曲ほどを何度か繰り返し聴き、その中から心に引っかかる曲を選別しているんですが、今のところお気に入りに入れたのは20曲くらいでしょうか。
もちろんいい年をした私と若い人の感性は全く違いますから、それが一般的とは言えないことはわかっていますが、特別にボカロに興味を持っていない人たちにまで広がっていきそうな曲となると、ものすごく限られてしまうような気がします。

これはある意味予想できること。一曲リリースするのに多くの人の関わりや手間隙、そしてお金がかかる場合は成功しそうな作品でなければ発表すらままならないのに対し、ボカロは発表までの障壁が低いですからね(それでもCDになって発売されていることだけでもすごいことなんでしょうが)。

これについては最終的に時間が結論を出してくれるんだと思います。
少なくとも20年くらい経ってから今を振り返った時、「あの時代にこんな歌があったね」といった話題を多くの人とやり取りできる曲が「生き残った曲」と言えるんでしょう 。

私もかつてオーケストラで楽器を弾いていましたが、クラシックも作られた当時は「モダン」だったわけで、おそらく今残っている曲の何百倍もの曲が作られては消えていったはず。今演奏されている曲はその競争を潜り抜けた、ごくわずかの生き残りなんだろうと思います。

 

ボカロの話はここでおしまいですが、ついでに最近のアニメ曲について一言。

最近のアニメのオープニングやエンディング曲の中には、アニメ自体の設定やストーリーと無関係な内容のものが目立ちます。長くやっているアニメの中には定期的に曲が変わるものもありますね。
曲や歌手を売るための仕掛けなのかもしれませんが、私はやっぱりアニメの内容と曲は一対一で繋がっていないと面白くないですし、放送から何十年か経ったアニメを思い出す時に、記憶に残っているアニメは必ず主題歌がセットになって出てくるものだと思うんです。

逆にアニメ自体の内容が良かったのに、主題歌があまり魅力的でなくて「懐かしのアニメ特集」でもなかなかお呼びがかからず、だんだんと記憶から消えていくものも多くあるような気もします。

例えばこのように少し書くだけで、結構若い人でも何のアニメかわかると思います。

♪ ビル〜の街〜にガオー  
♪ 思い〜込んだら〜試練の道を〜
♪ 空に〜そびえる〜黒鋼の城〜
♪ 砂の嵐に〜隠された〜
♪ 白い〜マットの〜ジャングルに〜
♪ さらば〜地球よ〜旅立つ艦(ふね)は〜

歌と内容がリンクしているからこそ今でも人々に思い出され、場合によってリメイクや続編も出てきたりと長く稼げるコンテンツになっている。
今のアニメが次世代に語り継がれるかどうかは、かなりの部分で主題歌、特に歌詞が重要だと思いますね。

その結論もボカロと同じように20年後に出ることでしょう。



23. 新しい炊飯器はとても美味しく炊けますが
・・・14/01/10

長く使っていた炊飯器が結構ぼろくなってきたので買い換えることにしました。

電気製品の購入って一つの「お祭り」ではないでしょうか。小さかった頃、初めて家にテレビが来た時の嬉しさは昨日のことのように覚えていますし、洗濯機や冷蔵庫が新しくなるたびに「やったー」と思ったものです。
自分でモノを買うようになってからも、例えばパソコンやデジカメ、また初めて車を買った時も、これで生活や行動が一変するんだという高揚感がありました。

でも最近の家電、特に白物の多くは買い換えで、そのきっかけは壊れたり古くなったことですから、買いに行くのは半分義務のようなもの。一応下調べもしましたが、特にわくわくした気分になることもなく家電量販店に向かいました。

下調べと言うのは主に比較サイトで売れ筋やレビューを見ることです(家電に詳しい知人に聞くこともある)。でもその結果を信じているかと言うと実はそうでもない。大手比較サイトと言えど一つの機種のレビュー数はそれほど多くないですし、売れ筋上位の機種が必ずしもリアルで売れているとは言えないからです。
 
家電製品の販売ルートは大きく家電量販店(カメラ系量販含む)、ホームセンター、一般電気小売店、ネット、その他諸々と分けられると思います。昔は街の電気屋さんに行くのが一般的でしたが、その後量販店が台頭し、最近はネットで買う人も増えています。
 
家電製品は型番さえ同じなら中味は一緒ですから、一番安いルートで買うのは理に適った一つの手段です。そして大抵はネットの方がリアル店舗より安い。

ネットは土地も、店舗も、照明も、接客店員も、新聞折込チラシも要らないですから、経費がまるで違うんですね。
それに加え最近はスマホを持っている人も多いですから、お店に行って店員から商品説明を受け、気に入った機種が決まったら
「よくわかった。もう一回良く考えて出直してくる」
とか言って店の外に出てネットでポチる・・・なんてこともできるわけです。

「俺達はショールームか!」
と量販店が嘆きたくなる気持ちもわかります。
 
もちろん量販店やメーカーも手をこまねいているだけでなく、色々な対策は取っています。
上で「売れ筋上位の機種が必ずしもリアルで売れているとは言えない」と書きましたが、ネットが増えたと言ってもメーカーにとって一番の得意先は家電量販店ですから、大事な機種はなるべくネットに流れないように工夫したり、逆にネット専用の機種を決める場合もあります。 ただ大きな流れとしてもうしばらく、バランスが取れるまではネットの台頭は進むと思います。

私はよほどのことがなければネットで家電は買いません。理由はいくつかあります。
 
・家電製品の購入は「ハレ」の儀式みたいなもの。お店に行って並んでいるものを触ったりしながら機種を決めていくプロセスを楽しみたい気持ちが残っている

・何と言っても店員は家電のプロ。アドバイスを受け自分に最もふさわしい機種を選ぶことができたのなら、「相談料」を払う意味でもその店で買うのが礼儀

・万一故障があっても、買った店には持って行きやすい

と言うわけで某大手量販店に行ったわけですが、当然ながらそこにはたくさんの炊飯器・・・高いのから安いの、普通のデザインのものから炊飯器とは思えないもの・・・が置いてあります。どれが我が家にとってのベストなのかはわかりませんが、先ほどのネットの評判に加え、

・高級なお釜は安いお米を美味しく炊く能力が高いようだが、ウチは幸せなことに良いお米が手に入るので、それはあまり気にしない
 
・メンテナンスが簡単な方が良い。毎回内蓋やキャップなどを外して洗うので、そこが面倒なのは嫌

・長時間保温はあまり使わないので、そこが優れていることは気にしない

なんてことも考えながら、店員さんと相談して選んだ機種はこれでした。
 
炊飯器は専業メーカーが頑張っている特殊な市場。シェアもどうやら象さんや虎さんがパナさんや東芝さんの上を行っているようです。 総合家電メーカーがダメとは言いませんが、私はその製品が失敗すれば屋台骨が揺らぐ・・・、つまりいつも背水の陣で商品開発しているだろう専業メーカーを応援したくなるタイプです。
 
この機種の肝心の味ですが、今までのよりも明らかに美味しくてちょっとびっくり。こんなことならもっと早く買い換えれば良かったと思うほどでした。
 
ただ一つ気になったことがありました。操作パネルのLED周りの「スケ」です。部屋が真っ暗でなくても、意外とこれが目立つ。
結構高めの炊飯器なのに残念だなあと思ったものの、ここをちゃんとやるのは意外とコストがかかるんですよね。

その理由です。
 
・操作パネル及び開閉蓋はフィルムインサートと言う方法で仕上げられている

・この方法だと「スケ」を防止するにはフィルムに裏からしっかりと「止め印刷」をしなければならない
(状況によっては白塗ってシルバー塗ってと複数回。今回の機種もやっているのかもしれないが、徹底的ではなさそう)

・そのコストは結構高く、操作パネルと開閉蓋両方で数十円単位のコストアップになる可能性がある
 
・操作パネルだけ「止め印刷」をやれば? と思うかもしれないが、「止め印刷」は表から見える色味にも影響を与えるため、操作パネルと開閉蓋の色が合わなくなる可能性がある
(プラモでもボディーの色は下地に影響されるが、それに似ている)
 
このコストアップは「販売価格を上げる」か「利益を下げる」かで折り合いをつけることになるでしょうが、おそらくメーカーは、
 「この程度のスケは機能には関係ないし、大きな瑕疵ではない。文句言う人もいないだろう」
と判断したんじゃないでしょうか。
 
ところがここに約一名、ぶつぶつ言っている奴がいます。すみませんねえ象さん。

ちょっと高い炊飯器だったのでこんなこと書いちゃいましたが、この炊飯器、全体の造りはしっかりしているし、何よりもとてもご飯を美味しく炊けます。買ってよかった。それだけは強調しておきます。

(スケの写真はややそれを強調するように撮りました。実際ここまで極端には見えません)




22.結婚はするべきか
・・・10/07/012005年を境に日本の人口は減少に転じています。 その理由の第一は皆さんもご存知の「少子化」。出生率(一人の女性が一生に産む子供の数)が2をちょっと超えていないと人口は増えないことは容易にわかると思うんですが、最近の日本の数字は1.3前後ですから、このままでは人口が減っていくのは明白。

ただそれは一組の夫婦に平均1.3人しか子供が授からないってことではないんです。長く夫婦を続けている夫婦が授かる子供の数(夫婦完結出生児数)はまだ2人を超えているんですね。 つまりどういうことか・・・、主な理由は「昔に比べ結婚しない人が増えた」ってことなんです。

その数字(生涯未婚率)は現在の所男性で16%、女性で8%くらい。つまり例えば男性の場合、6人に一人は結婚しないで生涯を終わることになります。 さらに現在の20歳くらいの若者の場合、これが3割くらいに上昇するであろうと言う予測数字もあります。

じゃあなぜ若者は結婚しなくなったか・・・ですが、調べた所によると理由はおおむねこんな感じです。

男性
 
1位:適当な相手にめぐり合わないから 
2位:経済力がないから 
3位:趣味やレジャーを楽しみたいから 
4位:自分の自由になる時間やお金が少なくなる 
5位:異性とうまく付き合えない

女性
 
1位:適当な相手にめぐり合わないから 
2位:自分の自由になる時間やお金が少なくなる 
3位:経済力がないから 
4位:趣味やレジャーを楽しみたいから 

5位:仕事にうち込みたい、仕事しずらくなる。

どれも数十年前には考えられなかった理由ですね。

今の年齢で70歳以上の世代ですと
「親が相手を決めた」
「結婚するまで相手とは2〜3回しか会っていない」
なんて例がざらでした。
人づてに聞いた近所のおばあさんの場合はさらにすごくて、
「結婚式の当日に本人を初めて見た。正装した男の人が三人いて、二人は結婚相手の弟だったんだが、紹介されるまで誰が自分の旦那になる人かわからなかった

なんて話もあります。 「適当な相手」だったかどころじゃありません。 
そんな時代でも、ほとんどの人が結婚した後ちゃんとやっていたんです。

そもそも一昔前は所帯を持たないと生活が非常に不便だった。男性は仕事して金を稼ぐことができますが、炊事・洗濯や子育てはなかなかできない。逆に女性は就ける仕事が限られていましたから、一人で暮らすのはなかなか難しかったでしょう。 
着るものにしてもそうですね。昔は生地を買って自分で仕立てることが普通でしたし、既製服は高かった。だから男が一人暮らししていれば着るものにかなり不自由したと思います。
これはまさに「一人口は食えなくても二人口は食える」です。

一方今は女性も仕事選択肢がはるかに多くなっています。男から見てもコンビニやコインランドリーなどがあるし、スーパーでは惣菜も売ってます。衣料品も買った方が安い。だから男の一人暮らしってできるんですよね。

他人と生活を共にすれば、色々なものを捨てなくてはなりません。逆に制約は多くなります。 それを考えれば、生活に不自由を感じていないのだったら無理に結婚と言う重荷を背負う必要性はないのかもしれません。

私自身、18歳で家から離れ、結婚するまでの約20年間は一人暮らしでしたけども特段の不自由はありませんでした。ある程度料理はできますし、炊事・洗濯・掃除は家電製品が助けてくれる。 好きなことに割ける時間は今よりはるかに多かったですし、経済的にも余裕がありました。
今は教育費と家のローンが負担になってますが、もし結婚せずアパートの一人暮らしを続けていたら自由に使えるお金ははるかに多かったはず。 ひょんなことで縁があって所帯を持ったわけですが、もしそのまま独身で過ごしていても、おそらくそれはそれで楽しくやっていたんじゃないかと思います。ご覧のように好きなことはたくさんあって暇をもてあますことはないですから。

そういう私ですが、縁があって結婚をし、二人の子供を持つ身になりました。 もし独身を続けていたらどうだったのか。どっちが幸せだったのか・・・。これはすごく難しいです。まだ人生は続いていますから。

ただ、経験者として言えることは一つあります。それは
「結婚は人を成長させるものである」
と言うこと。
全く違った環境で育った他人同士が一緒に暮らせば摩擦も起きます。その中で時に我慢したり、相手の指摘を受けて自分の考えや態度を修正して行ければ、ちょっとはましな人間になれる。 また、もし子供が授かった場合、その子をまともな人間に育てたいと思ったら自分自身がお手本になるように努力しなければならない。
そうやって私もずいぶん成長したんじゃないかと思います。

「いーや、あんたはとてもまともには見えないけど」 
と言うあなた。それはある意味正解ですが、少なくともあなたは昔の私がもっとひどかったことを知らない。 この十数年でずいぶんまともになったんですよ。 
独身の時の自分の言動、人生観などを振り返ってみた時、もしそのまま一人で過ごしていたら今自分はどんな人間になっただろうと考えると正直ぞっとします。

私は
「人は結婚すべきだ」
と言っているわけではありません。ただ、結婚したことのない人には絶対わからないことがあるような気がします。
人の一生はせいぜい百年。何をどうやっても最後は死んでいくのですけど、結婚はその人生を色んな意味で濃くしてくれると思う。

このサイトを見ている人の多くは模型を趣味としているでしょう。フィギュアやアニメなどが好きな人も多そうです。そういうことに没頭している日々は楽しいでしょうし、
「結婚した方が幸せになりますよ」
と約束もできませんが、やっぱり
「人生は濃く生きた方が面白いんじゃない?

って言いたいな。



21.乾燥洗濯機を買いました
・・・10/06/06洗濯機の調子が悪く、エラーが出てなかなか動かなかったり、運転中に止まったりの頻度が多くなってきました。洗濯は日々の仕事ですから毎回
「ちゃんと動けよ!」
と念じながらスイッチを入れます。修理をすれば直るのでしょうが、買ってからそれなりの年数が経っていて、修理してもまた別のところが故障するかもしれないことや、もともとこの洗濯機は私が一人で量販店に行って決めた機種で、ちょっとマニアックな機能が奥さんには不評だったこともあって、思い切って買い換えることにしたんです。

新しい洗濯機は前と同じ8kgの縦型全自動タイプ(乾燥機能なし)を考えていました。まず「価格.com」で候補を絞り、ネット最安値から1〜2万プラスを前提とし、延長保証と引き取り料加えてマックス7万円前後かなとイメージしました。

日曜日に奥さんと近くの家電量販店へ・・・。お目当ての機種を見つけ、価格もおおむね納得。ほぼ決まりと思っていたら・・・、 
「ところでこちらの乾燥機能付タイプなどはいかがですか?」 
の店員さんの一言が全てをひっくり返しました。

乾燥機能付の洗濯機があること、またそれには縦型や、ドラム式があることは知っています。でも洗濯物はハンガーに吊るして乾かすものだと刷り込まれている私には完全に候補対象外だったんですが・・・。

乾燥機能付を買うにはメリットの確認が必要です。奥さんとも話し合い、
 
・洗濯物はこれからも原則的に屋外、または室内干しするが、雨の日や梅雨時など乾きが遅くて困るときには便利だね・・・消費電力はすごいけど 
・洗濯物が多くて干す場所がなくなったときは、干せない分の乾燥に使おうね
・・・消費電力はすごいけど 
・いっぺんに9〜10kg洗うことができると今まで二回に分けた洗濯が一回で済む場合もあるね 
・そもそもドラム式は水道使用量が少ないので、維持費は安くなるかもね
・・・乾燥モードを多用しなければね(←しつこいぞ)
 
ってことで何とか自分を納得させることにしました。

検討したのは二つのメーカーの機種でしたが、一社のものは在庫がなく取り寄せにちょっと時間がかかる、もう一社のものは在庫があるので明日には取り付けに行けるとのことで、迷うことなく機種は決定。 
買うには手持ちのお金で足りるわけがなく、いったん撤収して銀行のCDコーナーへ。普通口座からがっぽりおろしたので、後から積み立てを取り崩して埋め合わせしましたよ・・・。

翌日、設置が行われましたが、ちょっと驚いたのは取り付けに来たのが当日私たちと応対した店員さんだったこと。もう一人の人もお店の方。聞いてみましたら
「ウチは設置も社員がやる方針で」
とのこと。 
多くの量販店の場合、設置は下請けの業者さんに任せていると思っていたので意外でした。

実は今回具合が悪くなった洗濯機は別の量販で買ったのですが、その設置について奥さんは不満を持っていましてね。 
奥さんは、古い洗濯機を撤去したら新しいのが置かれる前に洗濯パンにたまったホコリをささっと掃除しようと待機していたんです。
ところがちょっと目を離した隙に業者さんが
「奥さーん、設置終わりました。じゃあ帰ります」
とあっという間にいなくなり、掃除どころじゃなかったと・・・。

「下請けの設置業者だったんだろう。据え付けた数で稼いでいるかなら・・・」
 と私が言っても、 
「もうあの店からは買いたくないな」 
という評価です。

で、今回ですが、ちゃんと水平が出るまで念入りに調整、商品の使い方説明と試運転もきっちりしていました。私は前の仕事振りは見ていないのですが、雲泥の差だったと言えるでしょう。

以前買った量販店は価格が安いことで繁盛しているところもあり、もしかしたら今回もそちらの方が安かったかもしれません。でも我が家では大物家電はおそらく今後も今回の店で買い続けることでしょうね。

また後日、懇意にしている家電業界新聞の記者さんにその話をしたら、

「ドラム式洗濯乾燥機はまだ発展途上のところもありますが、BD-V3200Lとは洗濯の仕上がりが良いものを選ばれましたね。 
日立さんはこの機種に相当自信があるらしく、商品の発表会でもは某社さんの商品と比較しながら、乾燥時の仕上がりの良さ、汚れの落ち具合を堂々とアピールしていましたよ」 

と教えてくれました。

今日で使用二ヶ月ですが、とても満足しています。特に洗濯物がたくさん入るようになったこと、布がらみがないのが良いですね。

問題の乾燥モードですが、いざと言うときの保険のつもりで考えていたものの、結構使う場合が多いです。前の洗濯物を取り込んでいないとき、ドタバタしていて干すのが面倒と感じるときなどです。また、もともとドラム式は縦型より仕上がりがゴワゴワするものなのですが、ちょこっとだけ乾燥をかけるとそれがやや抑えられるのも知りました。

電気代は簡易測定器によれば脱水までで一回2〜3円くらい、乾燥までやると平均で30円くらいです。高いって言えば高いのかもしれないけど、30円って・・・タバコ二本分ですね。たははは。

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洗濯機の支払いをした日の話に戻りますが、家に帰ったら妙に疲れが出てぐだっとなってしまいました。 

奥さんは 
「高いの買ったことに不満でもあるの?」
 と心配してくれましたが、そういうことじゃあないんです。 
「趣味のデジカメ買うのに半年近くもかけた。その何倍も高い洗濯機を買うのに15分しかかけなかった。こんなに高い買い物ならもうちょっとじたばたして決めたかった。その楽しみを味わうことができなかった」 
ってことなんです。

元気を取り戻した後は「価格.com」や「家電Watch」へ。今回買った機種の口コミ、レビュー、売れ筋順位などをチェックし、おおむね評判が良いことを確認して満足しました。

もし評価がボロボロの機種だったとしても今更だったわけですが、どうしてもやっちゃうんですね、これが。



20.公明正大・・・
(この文章を、どこかの県の教育委員会に贈ります)・・・08/07/23私は会社では広告宣伝担当なので、各テレビ局も結構頻繁に訪問してきます。 彼らはまず手ぶらで来ることはありません。ちょっとした手土産としてその地方のお菓子などを持ってくることが日常です。 

おそらく私は本社事務所で働いている人の中で一番お菓子をもらっていると思いますが、そのお菓子はまず私の口には入りません。その都度総務部に提出しているからです。 総務部にはローテーション表みたいのがあり、もらったお菓子は各部署順番に回しているんです。 

これは当然のことでして、テレビ局は私個人ではなく、CMを発注してお金を払ってくれる「会社」に手土産を持ってきているわけですから・・・。
 (まあ「マロングラッセ」とか「萩の月」などをいただいた時は「こっそり持ち帰りたい」と後ろ髪引かれることもありますが、それをやっちゃおしまい・・)

会社に利益をもたらしているのは、工場で一生懸命製品を作っている人たちと、それを売っている営業の人たちだと思っています。そういう意味では私はお金を稼ぐどころか、利益の一部を「広告宣伝」としてばらまいて営業の支援をしているに過ぎません。つまらないCMを作れば、金をどぶに捨てることにもなるくらいです。

「佃煮」「海苔」「ちりめんじゃこ」など、どうにも分配できないものをいただくこともありますが、こういうものは終業後に工場などをぶらぶら回り、残業で頑張っている人を見つけて「ほい」と渡すこともあるかな・・。

「缶詰」「ワイン」などの日持ちするものをいただいた場合にはどうするかと言いますと、総務ではそれをストックしておいて、後ほどまとめて社員に売るんですよ。もちろん値段は市価よりずっと安くしていますので、希望者が複数いれば抽選となります。 とても公平なルールですけど、まあはっきり言って
「真面目な会社やなー」
と思います。

 

数はごく少ないのですが自宅にもお中元が送られてくる時もあります。最近は取引している業者さんに自宅の住所を教えるケースはなく、また比較的新しい付き合いの業者さんは自宅住所を聞きもしないので、
「昨今は公明正大な取引意識が浸透しているのだなあ」
と思いますが、昔から関係がある業者さんの中には「石鹸」「調理油」、あるいは「缶飲料」などの詰め合わせを自宅に送るのが当たり前と思っているところもあるんです。

「プラモ詰め合わせ」なら別の意味で喜びますが、こういうのは正直言って迷惑としか言いようがありません。 
私がそのお中元をもらったからと言って、その業者に便宜をはかることは一切ありませんが、先方はもしかしたら
「お中元贈ったからウチの会社のこと、少しは気にかけてくれるかなぁ」
と微妙な下心を持っているかもしれない・・なんて、どうでもいいことに心騒がされるのが死ぬほど嫌なんです!

で、そのお中元ですが、やっぱり会社に持って行き、最後は社内販売に回ります(奥さんの目から出る「早く持ってけ光線」もかなり強力ですし)。

 

あ〜、どうせ自宅に送ってくるなら会社に持っていけないもの・・・例えば「カニ」とか「牛肉」だったらいいのにな。そうすれば
「仕方ないけどウチで処分するしかないなぁ・・・へっへっへ」
と言い訳が立ちますからね。



19.今、この時代に生まれてきた偶然・・・
07/08/19
地球の年齢は46億年とも言われています。生命は38億年くらい前に誕生し、その後進化を続けながら現在に至っています。あなたも私もその頃誕生した生き物の子孫(もう少し正確に言えば、5億年位前に脊索動物に進化した生き物の子孫)でしょう。

あなたや私が生まれたのが今この時代ですが、ちょっとずれて1億年くらい前に生まれていたら、おそらくネズミのような形をした小動物だったでしょう。 
100万年前だったとしたら、ホモ・エレクトスのひとりとして中近東あたりの森をうろうろしていたかもしれません。
ぐっと近くなって1000年前、もし私が平安中期の越後平野に生まれていたら、一生泥と汗にまみれて畑を耕しながら、世界のことなど何も知らずに死んでいったでしょう。1000年なんて38億年から見れば誤差範囲もいいところです。 

ではなぜ今だったのか、これはただの偶然なのか・・。 おそらく偶然なのでしょうけど、心情的にはそうは思えない。この時代はピンポイントで狙ったように、ここしかない瞬間だと思うのです。

 

人類が誕生してから数百万年、でも言葉をしゃべり始めたのはせいぜい10万年前ですし、農業を始めてから1万年、文明を持ってから数千年くらいしか経っていません。

今こんなに便利に快適に生活できているのも、人類が農業という「自然を破壊して食べ物を確保する方法」を発明し、次には文明という「森を破滅させて発展していくシステム」を作り出し、ついには「地球が何億年もコツコツためてきた石油を利用する方法」を発見したことによる結果なのです。 

石油(あるいは天然ガスなども含んだ化石燃料)は考えれば考えるほど素晴らしい「奇跡のエネルギー源」です。燃料になるのはもとより、プラスチックや肥料などの原料としても生活を支えています。水でさえ石油が運んでいると言ってもいい・・・。地球の人口が増えているのも石油があればこそです。 

その石油、本格的に利用されてからわずか150年ほどでしかありませんが、もう枯渇が話題になっています。可採年数については諸説あり、今後の使用量によっても枯渇までの年数は大きく変わってくるでしょうが、何れにせよそれは数十年から100年のオーダーでしょう。天然ガスはもう少し持ちそうですが、これも遅かれ早かれなくなります。 

化石燃料がある日突然なくなることはないでしょう。だが供給量はかなりのペースで落ちていくと考えられます。新しい油田の発見があったり、技術の進歩で今まで不可能だった深部からも石油を掘れるようにはなるでしょうが、それも使用量には追いつきません。
今石油を大量消費している、いわゆる先進国(この言葉、嫌いだけど)でいくら省エネを推進しても、一人当たりのエネルギー消費量が先進国の数十分の一の発展途上国(この言葉も嫌いだけど)だって少しでもましな生活がしたいと考えるのは当然なこと。

となるとどうなるか・・・。

まずは資源の値段が上がり、不足してゆく資源の囲い込みが行われ、資源をめぐる争いが多くなる。そんなことを繰り返しつつも確実に資源は少なくなって行き、やがて農業生産量も減少し、地球は今の人口を支えられなくなるでしょう。 この動きはおそらくもう始まっています。最初はゆっくりとした動きでしょうが、徐々に加速がついていくはずです。

「ピンポイントで狙ったように、ここしかない瞬間」はそういう意味です。最初は森、次に化石燃料と地球にもとからある資源を食いつぶすことで発展してきた人類がいよいよ衰退に向かう転換点・・・、山登りで言えば、頂上に達した後下山にかかる今この瞬間に私たちは生まれてしまったんですね、きっと。

江戸時代の日本の人口は3000万人くらい、ほとんど海外からの資源に頼らず自給自足で食べていました。またその頃の世界人口は10億人〜15億人くらい、今の数分の一です。このあたりが再生可能な資源を利用して暮らしていける適正人口なのかもしれません。 
争いで人口が減るのはごめんですが、人類がゆっくりとその状態に持っていく方法を確立して行けるのなら素晴らしい。

人類がすんなり下っていけるか、あるいは崖から足を踏み外して転落するか。私の世代ではそれを最後まで確認できないかもしれませんが、もしかしたら今10代くらいの皆さんなら人類がどちらの運命をたどるのかをはっきり見届けられるかもしれません。今この時代に生まれた偶然はそれほどすごいことだと思うのです。

 

 

18. 侘び・寂び・萌え・・・06/07/29「萌え」が海を越え世界中に伝染し始めている模様です。

「萌え」はもともと「アニメやマンガの美少女キャラクターに対するオタクたちの愛情表現(森永卓郎氏)」だそうです。(←「いや、そうじゃない。”萌え”というのはもっと懐が深くてね!」などと反論したい人は多いでしょうけど、今日のところは抑えてください)

オタクたちが愛する(いや、オタクでなくても愛する)日本のアニメやコミックは海外でも高い評価を得ていますが、それは日本のアニメ・コミックが「発想の豊かさ」「テーマの奥深さ」「ストーリー展開の面白さ」「絵の美しさ」など、世界的基準で「ハイレベル(高品質)」であるから、と言っても良いでしょう。

しかし「萌え」はハイレベルなのか・・。「アニメ・コミック」と「萌え」は密接に関係していますが、イコールではない。「アニメ・コミック」を評価する時には、前述のようにストーリーや発想を意識している場合が多い一方、「萌え」は基本的な対象が「キャラ」ですから、「キャラの立ち具合」や「好きなキャラがどれだけ萌え要素を有しているか」などが重要になり、「品質」は第一要素ではないと考えられるからです。

まあ、少なくともメイド喫茶で作ってくれる卵焼き(ケッチャップでメッセージなど書いてくれる所もあるらしい)はプロの料理人の味ではないと思われますし、彼女たちが「ベッドメイキング」や「掃除・洗濯・アイロンがけ」のプロであるとも思えません。いや、もともとそんなものは期待されていないと思いますしね。

それにも関わらず、
”韓国・台湾・タイなどアジア各国にメイド喫茶が続々登場”
だとか、
”フランスでは、日本文化=「侘び・寂び・萌え」”
となりますと事は重大です。

 

「侘び」「寂び」は古くから日本文化の代名詞として知られています。では私たちは「萌え」を語れる以上に「侘び」「寂び」を説明できるのか。それ以前に「侘び」と「寂び」の違いすらわからないのではないか!

そこで自分なりにまとめてみました。

「侘び」とは・・・余計なものを削ぎ落とし、残された本質のみが持つ美しさを尊ぶこと。

「寂び」とは・・・時間と共に朽ち果て、消えていくものを哀れに思い、時空のかなたに「ものの真理」を感じること。

日本人はなぜ朽ち果てていくようなものを大事に感じるのでしょう。また、「萌え」との関係は?

この件に関して私は何日も考え続けました。そしてこれらを四季と絡め、このようにまとめることにしました。

青春 

朱夏

白秋

玄冬

萌え

(なし)

侘び

寂び

草木の芽がいっせいに出る

植物が一番活気ある季節

実(=一番大事な種)を残して葉を落とす

命を次世代にバトンタッチし、枯れて行く

  
夏は人生に当てはめれば「働き盛り」です。一生懸命仕事して、家族を養って、充実した暮らしを目指す日々を送ります。

そして夏をはさむ形で、

春=萌え
秋=侘び
冬=寂び

があります。それが私のとりあえずの整理です。

 

「侘び」「寂び」は「働き盛り」を通り過ぎた人にわかる感覚ではないかと思います。人は永く生きていれば、お金や物や愛をいくら手に入れても それらが次第に色あせ、最後には失われていくことを知ります。また自分自身もいつかはこの世からいなくなり、人々の記憶の中の存在になります。

「人生って侘びしいなあ、寂しいなあ・・・」

でも人生ってそういうもの。むしろピークを過ぎ、世俗へのこだわりに縛られなくなった頃に「生きることの価値」をかみしめられるとしたら、そしてそれが「侘び」「寂び」感覚だとしたら、歳をとるのも悪くないなあと思ったりします。

では「萌え」はどうまとめたら良いでしょう。
そもそも「萌え」は「萌え出づる春になりにけるかも(志貴皇子・万葉集)」であり、「青春」とダブる面が多々あります。
「青春」という言葉を形にするのは難しいものの、「萌え」はイメージとしては何となく目に見えますね。だからこそ海外でも理解されやすいのではないかと思うわけです。

ただ残念なことに「青春」は「働き盛り」の前段階でもあり、歳とともに心に占める割合が小さくなっていくのが自然の流れです。ある意味つまらないと言えばそれまでですが、いつまでも「青春」しているのもちょっと問題ありでしょうか。

私なんぞは同世代の中ではかなり頭の中が「春めいて」いる方ですが、それでも現実世界の方は一応ちゃんとやっているつもりですよ。

 

・・・いやー、今回は難しいテーマでした。何回文章を書き直しても、言いたいことが十分伝わらないもどかしさを感じています。
(そもそもこういうテーマで悩む方が変、って言わそうだけどね)

 

16.頭がいいとは・・・07/02/22最近打ち切りになった例の番組は、テーマの実効性に関してデータの根拠が曖昧だったり捏造だったりしたことが問題だったわけですけど、最近はそれ以外のテレビ番組でも「やらせがあった」とか、「恣意的な編集があった」とか話題が広がり、「ウソ大げさは許しません」てな風潮一辺倒になってしまっている昨今です。

もともと視聴者が「バラエティー番組」として見ていれば「話半分に聞いてよね」ですんだのかもしれませんし、一部の例外を除けば紹介された食品をちょっと食べ過ぎたくらいで問題も起きなかったわけですが(調子に乗って納豆をむさぼり食って太っても自己責任だし・・)、曲がりなりにも「生活情報バラエティー番組」”情報”の二文字が入っちゃってますから逃げようがなかったんでしょうね。 ただ感じるのは、何だかここ数年で日本全体が「ちゃんとやっていない奴は許さんぞ」てな感じで、妙にまじめになっちゃって・・。

こんなことを書いているうちに思い出したことがあります。

「おさかな天国」って歌があります。かなり古いものですが、2002年ごろに一回ブームとなりました。 その歌詞の一部ですが、ご存知のように、

♪さかなさかなさかな〜 魚を食べ〜ると〜
 あたまあたまあたま〜 頭が良くなる〜♪

となってます。

私などは底意地が悪いですから、 
「本当に頭が良くなるのか、はっきりと証明できるデータはあるのかよ、オラオラ」 
なんて思ったりしたんですが、色々な人に聞いてみたところ、 
「特に問題だなんて感じないけどね、歌だし。」 
と言う反応がほとんどでした。

ちなみに魚を食べると頭が良くなる根拠ですが、それはご存知のDHA(ドコサヘキサエン酸)の効果のことを指します。本当にどうなのかは両方の考えがあり、正直言ってよくわからなかったです。でもDHAがちゃんとした栄養であることに疑いはないと思います。

こういう時はもうちょっとマグロ・・・じゃなくってマクロに考えてみます。

日本人は世界の民族の中でも魚をたくさん食べる方です。年間一人当たり60kg以上食べているようです。世界平均は15kgくらいなので、はるかに多い。 
でも一番ではありません。モルディブでは年間何と180kgくらい食べていますし、アイスランドでも90kgくらい食べています。 逆にモンゴルでは年間1kgも食べていません。

ではモルディブやアイスランドの人が頭が良くて、モンゴルの人は頭が悪いか・・・。そんなことはないでしょう。
少なくとも朝青龍は日本に来て10年ほどであれだけ日本語が流暢になっているんですから。

つまり、 

・魚に限らずまっとうな食事は正常な脳の発達には必要だ→まともな栄養を摂っていない人にちゃんと魚を食べてもらえば、あるべき頭の回転に戻ることもありうるだろう。 

・魚だけを食べないからと言って頭が悪くなるとは言えない。 

・普段しっかりした食生活をしている人がいつもより多めに魚を食べたとしても、さらに頭が良くなるとは考えにくい。 

が、とりあえずの結論です。

 

で、そもそも頭がいいってどういうことか。

「IQ120相当の問題です」なんて言い方もありますが、そもそも知能指数と言う基準がちゃんと理解されていません。説明するのも面倒なので詳しくは自分で調べていただきたいのですが、簡単に言えば8歳の子供にもし12歳に相当する情報処理能力があれば、計算上ものすごい知能指数になるってことです。早熟な子供に有利なのが知能指数です。

でも知能指数は本来「想像力」や「感受性」、「表現力」などには無関係の能力です。

あまりにも頭の回転が良くて成績も良いために周りの人がバカに見える人、あるいは人の心の痛みがわからない人がいたとします。周りと上手くやっていけそうもないこの人を果たして「頭がいい」と言えるか・・・。

えーーと、これ以上「頭の良さ」に関して話を進めていくと、色々差し障りも出てきそうなのでこれでやめますが、最後に一言。

私はお笑い芸人には「人を笑わせる芸人」「人に笑われる芸人」の二つがあると思っています。前者のほうが総じて頭が良く、芸能界でも長く活躍出来ているようですね。

 

15.本物は光っている・・・05/11/10仕事を通じて色々な人と出会います。先日も美術品(主に古美術)を扱う人とお会いする機会がありました。
美術品の値段ってよく分からないですよね。製作者の評価が固まっているものでしたら相場なんてのもあるかもしれませんが、特に古美術は最終的に売り手と買い手が納得することで値段が決まっていくのが普通です。そしてその値段は作り手がどれだけ時間と手間をかけたかなどはあまり関係なく、あくまでも ”この値段なら、売ってもいい、買ってもいい” で決まってしまうものでしょう。

で、せっかくの機会ですので、日頃の疑問をぶつけてみました。

Q:最近「お宝鑑定番組」などが人気ですが、これによる影響はありますか?
A: 一般の方からの持ち込みが増えるようになりましたねえ。でも、そのほとんどは高い金額がつくような”お宝”ではないです。ひょんなことから安値で手に入れたものが、実は値打品だったなんてことはまずないと言ってよいでしょう。
持ち込んだ人は期待も大きいのでがっかりされる場合が多いのですが、仮に高値がつくようなものでなくても、「そのものにはあなたなりの思い出や大切さがあるのではありませんか? あなたにとってお宝であればいいではないですか。これからも大事にされてください。」と言うようにしています。

Q:プロの美術商の人はどこから品物を仕入れるのですか?
A: お得意様が「売りたい」と言ってくることもありますが、仕入れの多くは業者専門のオークションです。大量の出品を眺め、瞬時に値段を付けていかなくてはならないので大変ですよ。

Q:短時間で個々の出品物の価値がどうやってわかるのですか? 
A:知識はもちろん必要ですが、私も全部頭に入っているわけではないです。結局のところ自分の鑑定眼に頼るしかないわけですが、”本物”はわかりますよ。本物は光っていますから。

Q:その光が見えるようになるにはどうすればいいのですか? 
A:”本物を数多く見ること”に尽きますね。本物を数多く見れば見るほどその光を感じ取れるようになり、鑑識眼が磨かれます。
ここで言う”本物”ですが、”偽物に対する本物(=真正品)”という意味ではなく、いわゆる”一級品”のことです。”真正品”にも三流品がありますし、”実は偽物なんだけど、美術品としては超特級品”というのもありますから。

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何か模型の世界にも通じていそうな話ですね。最近は「絶版キット」などが「お宝」として高値で取引きされる場合も多いのですが、私は「プラモは作って楽しいもの」と思っていますので、あまりコレクションには興味がない。作りたいキットがどうしても手に入らない場合はオークションを利用することはありますが、「あなたもハッピー、私もハッピー」と言える価格で話がついたときは嬉しいものです。

「本物」についての話にも同感です。どんな世界でもそうでしょうが、その世界に入ったからには一流になりたいと思うのが常。そのためにはまずその世界のトップレベルを知ることが大事だと思われます。
模型にあてはめた場合、トップレベルを知る方法としては展示会やコンテスト会場に出かけることがあるのでしょうが、最近はネットでも数多くの一級品を見ることができるのはありがたいことです。

 

おまけ

奥さん 「あんた、”仔牛フィレ肉のステーキ ベーコン巻き 貴婦人風”、 いつ食べに連れてってくれるのよ。」 

私 「え、まだ覚えてるの。」
(良くわかる解説・・・・・ずいぶん前、財界人の集まるあるパーティーにお手伝いに行ったことがある電動士は、そのおこぼれに預かってパーティーの末席に座ることができた。当日のメインディッシュが”仔牛フィレ肉のステーキ ベーコン巻き 貴婦人風”だった。)

奥さん 「料理が上手くなるには美味しいものを食べなきゃって言うじゃない。早く連れて行ってよ。”仔牛フィレ肉のステーキ ベーコン巻き 貴 婦 人 風 を食べに!」 

 

14.「電車男」に思う・・・05/09/24この「こだわり道場」、気づいたら半年も更新していませんでした。サイトを始めた頃は毎週のように書いていましたし、日々思うことはあるのでネタに困っているわけでもないんですが、どうしてか。 
理由は主に仕事の負担ですね。以前より帰りが遅くなっているわけでもないんですが、年とともに仕事の内容も変化していまして、最近は精神的に抱えるものが多くなっている。 
このページでは基本的に皆さんに笑っていただけるネタを書きたいなと思っているので、家に帰っても何となく仕事の懸案事項が心の隅に残っていると、なかなか頭の中が「能天気モード」にならないんですよ。 

でも私のサイトをご覧の皆さんの多くは、そんなことに気付きもしなかったでしょう。私も掲示板にレスする時は生身の自分からサイト管理人へと「モードチェンジ」していますし・・。

 

さて、昨日最終回を迎えた電車男です。
普段は連続ドラマなど見ないのですが、このお話については本も読みましたし、自分自身の趣味に近い世界の出来事ですので、ドラマは毎週ほとんど欠かさずフォローしていました。 
このドラマの功績(?)ですが、いわゆる「ヲタク」とか「巨大掲示板」だとか、今までどちらかと言えば特定の人だけの話題であったものが、テレビを通してお茶の間の人たちにも認定された・・つまり「ヲタクを日の当たるところにメジャーデビューさせた」所にあると思っています。

ところで私は「ヲタク」なのかと・・。

自分では「ヲタク」ではなく「マニア」だと自負しているものの、奥さんに言わせれば立派な「ヲタク」らしいです。それは、電車男を一緒に見ながら交わした会話、

私 「いやー、それにしても、”ヲタク”って日本中にどのくらいいるんだろうねぇ。」 
奥さん 「少なくとも目の前に一人いるわね。」

で明らかです。

だとしても、「電車男」に出てくる主人公やネットの住人たちとのはっきりした違いはあります。 それは、「見ず知らずの他人には自分の心の奥底までさらけ出さない」ってことです。
誤解を避けるために言いますが、私自身はこのサイトをかなり本気に運営していますし、自分の考えもかなりのところまで明らかにしているつもりです。それでも生身の自分と「模型電動士」としての自分は使い分けています。プライベートな話題にも「書けるのはここまで」の線は引いています。

仕事がうまくいかないとき・・・、奥さんとケンカしているとき・・・、子供が病気していて心配なとき・・・日々色々なことがありますが、パソコンの前に座ったら一人のサイト管理人に変身します。それはここを見に来る人が「エンターテインメント」を求めていると知っているからです。

仮に私が独身で、ある女性のことで悩んでいても、その思いをネットの世界の住人にぶつけようとか相談しようとかは思わないでしょう。もし相談するとしたらリアルな世界の友人や先輩でしょうねぇ。 
あ、誤解を避けるために追記しますが、「電車男」の行動を非難しているのではありません。「ネットの世界に心を全てさらけ出せる人もいるんだなあ」と思っているだけです。

ただ、あのお話(まとめサイト、あるいはドラマの最終回のところまで)は、久しぶりに見た正統的恋愛ストーリーだったとも思っています。 
本来、恋愛ってのは「ある異性が気になる」→「声をかけたい、会いたいと悶々とする。でもなかなかできない」→「勇気を出してアプローチしていく」→「やっとこ二人っきりになれる」という過程を進んでいくものだと思うんですが、最近の付き合いって、誰かから「こういう人がいるけど、とりあえず会ってみたら? 波長が合えば付き合えばいい」といったパターンで、前半を一気に省略ってケースが多いのではないかと・・。

「電車男」はその点、至極真っ当で古典的・・。それがむしろ新鮮だったんじゃないでしょうか。

 

13.ぎりぎりセーフ・・・04/11/20子供たちがたまにこれで遊びます。都道府県のジグソーです。

試しに県名が読めるか聞いてみたら、流石に5年生の長男は一つ(宮崎)以外は全部読めました。


二年生の次男が読めたのは半分くらいですね・・。

 

 

 

 

 

ジグソーを全部とっぱらうと、こんな背景になっています。
ご当地の名産品、名所などが並んでいます。ざっと眺めてみましたが、おおむね「定番」ですね。

子供たちに順番に説明していきました。

 

 

 

 

 

だが・・・、

次男「これ何?」

私 「なまはげだよ。知らんのか。突然家の中にに入ってきて 『悪い子はいねぇがぁ! 言うごと聞かね子は 山さ連れて行ぐべ!』って言って子供の手を引っ張るんだ。」

次男 (・・・絶句)。

私 「で、親は、『ど、どうか子供だけは連れて行かないで下さい』って言って、お酒やお金を渡して帰ってもらうんだね。子供たちも”なまはげに連れて行かれるくらいなら、親の言うことを聞こう”と思うんだな。」

次男 「ほんとにいるの?」

私 「ほんとに山に連れて行くわけないだろう。お祭りだよ。この中には人が入ってるんだ。」

長男 「それって脅しジャン。」

次男 「暴力じゃん。」

 

・・・と、ひとしきり盛り上がった後・・。

 

こ、これは!

 

 

 

 

 

次男 「これ何?」

私 「そりゃ決まってるでしょ。こっちがミッ○ー、こっちがシン○レラ城。」

長男 「全然似てないし。」

次男 「下手だし。」

私 「違う! これには似せられない理由があるのだ。 例え似てなくても、この絵はミッ○ーとシン○レラ城だと思って見るのが・・・”思いやり”・・なのっ!」

 

12.東洋の○○(ほにゃらら)・・・04/05/234日ほど上海・蘇州に行ってきました。蘇州は「東洋のベニス」と言われているそうですね。
ちなみにバンコクも「東洋のベニス」と呼ばれる場合があります。

ではどっちが優勢なのか? こういうときはネットでキーワード検索し、「出てきた数が多い方を勝ち」としてみましょう・・。

「東洋のベニス 蘇州・・・513」
「東洋のベニス バンコク・・・313」

で蘇州の勝ち・・・俺は何やってんだか。

 

 

 

せっかくですから、”東洋の○○と言われている ほにゃらら”を色々集めてみましょう! 
(名前の右に数字が書いてある場合は、検索出現数です。)

・・・と言われている そこはどこ? コメント
東洋のハリウッド 調布38 京都30 大船7 調布=大映・日活 京都=大映・東映・松竹、大船=松竹ですが、相手が強すぎるような・・
東洋のハワイ 済州島171 海南島87  
東洋のパリ 上海248 プノンペン165 大連165 ハルビン13 ホーチミン2   
東洋のプチパリ ホーチミン108 奥ゆかしいぞ、ホーチミン
東洋のガラパゴス 小笠原585 西表島432 奄美大島276 南西諸島124 沖縄本島北部の「やんばるの森」95  一度関係者が集まって相談した方がいいと思います 
東洋のアマゾン 西表島 欲張りだぞ、西表島
東洋のエーゲ海 瀬戸内海  
東洋のドーバー 屏風ケ浦 「白亜紀」の語源となったホワイトクリフ(白亜の断崖)を持つドーバー海峡とは役者が違うような・・
東洋のナポリ 鹿児島市113 熱海75 別府64  阿字ヶ浦海岸15  
東洋のサンモリッツ ニセコひらふスキー場118 志賀高原15 蔵王温泉スキー場4    
東洋のボルドー 甲府盆地の勝沼  
東洋のナイガラ 吹割の滝281 天人峡敷島の滝37  
東洋のナイガラ 吹割の滝67 天人峡敷島の滝0 まだまだ努力が足りないぞ、天人峡敷島の滝
東洋のルソー 中江兆民 フランス人は、ほとんど誰も知らないだろう
東洋のマタハリ 川島芳子  
東洋のバイオリン 二胡  
東洋のチーズ 沖縄の「豆腐よう」  
東洋のモナリザ バンテイ・スレイ寺院のデバター像  
東洋の真珠 香港308 上海218 ペナン島261 東方明珠塔(上海タワー)3 明珠って真珠のことですから

話を戻して「東洋のベニス」の場合は、マルコ・ポーロが蘇州に来たとき、運河が交通網になっているところが自分の生まれ故郷ベニスと似ていたことからつけたそうですから、ある程度由緒正しい。

でも上に挙げたほとんどの例は、本家にあやかろうとして関係者によってつけられ、しかも、

△△は東洋の○○とよく言われています」

とか、

△△は東洋の○○として有名です」

とか言って、あたかもそれが既成概念のように思わせているのです、きっと。気持ちはわかるけどね、私はあんまり好きじゃない・・。

各観光地はいっそう精進して、「ナポリは西洋の別府として有名です」と言わせるくらいになってください。

 

 

11.加護亜依とフェニキア人の接点・・・04/05/08「モーニング娘。」のメンバー、加護亜依と辻希美が「W」って名前のユニットを組んでいることを最近知りました。
で、「W」の読み方は、「ダブリュー」ではなく、「ダブルユー」なんだそうですね。

「W」の語源が「DOUBLE U」である

ことからつけられたそうです。

 

「W」と言えば日本では、

「W ( ダブル ) でお得なキャンペーン」
とか、
「サントリーチューハイ ダブル搾り」
とか、
「マイナスイオンと遠赤外線のW ( ダブル )効果」
とか、
「薬用ホワイトニングエッセンス”ホワイト ショット W(ダブル)”」

のように、「W」という文字で「ダブル(二重)」を表すことが通っています。

でも「ダブル=DOUBLE」ですから、その頭文字を使えば「D」。この件は前から不思議に思っていたんですが、

「W」の語源が「DOUBLE U」である

とあったので、せっかくだから調べることにしました。

 

その結果は、「雑学蘊蓄グランドスラムボマー633爆撃隊」と言われる私も「目からうろこ」のことばかりでした。

 

では、順を追ってご説明してまいりましょう。

●いわゆる「アルファベット26文字」と言いますが、A〜Zの26文字はあくまでも現代英語圏のこと。「アルファベット」の起源は、はるか昔にさかのぼります。

●中央アジアやヨーロッパの文字の文字は、まず「楔形文字」から始まります。紀元前3500年頃にシュメール人によって発明されたそうです。
その後、起源前14〜13世紀頃、フェニキア人(今のレバノン海岸部に住んでいた)がこの楔形文字を改良して、最初の「アルファベット」を作りました。

「アルファベット」はその後、ギリシャ、ローマへと伝わります。
ギリシャ文字の最初の2文字は「アルファ・ベータ」ですから、「アルファベット」の語源ですし、ローマ人が使っていた「ラテン・アルファベット」が、いわゆる「ローマ字」となるわけです。

●その後「アルファベット」はヨーロッパ全土に広がって行きますが、その国の言語に合わせて文字の追加なども行われます。
特に「J」、「U」、「W」の3文字は比較的新しい文字で、

「J」・・・イタリア語では「長いI」と呼ばれ、「I」から派生した。

「U」・・・そもそも「V」と同じ文字で、母音、子音で使い分けられただけ。

「W」・・・「U」または「V」を二つ重ねて作られた文字。

なんだそうです。

アルファベットの順番で、「・・・ H I J K L ・・・」と 「I」「J」が隣り合っているのも、「・・・ S T U V W X ・・・」「U」「V」「W」が隣り合っているのも、これが理由だったんですね。

私は一人で感動している・・・。

それは、

「ランボルギーニ・イオタ」は、なぜ「Lamborghini Jota」であって「ota」でないのか。

時計の高級ブランド「ブルガリ」が、なぜ「BVLGARI」であって「BULGARI」でないのか。

加護亜依と辻希美が組んだユニット「W」が、「ダブリュー」ではなく、「ダブルユー」なのか。

全ての謎が氷解したからです。 ありがとう「つんく」。

今度、テレビで加護亜依と辻希美が歌っているところを見たならば、はるか昔のフェニキア人の英知に思いを馳せてください。

 

 

10.ソナタ・フーガ・ロンド 三大形式総進撃・・・04/04/18「冬のソナタ」とかいう韓国ドラマがブームだそうですね。私はああいうのは見ようとも思わないのですが、NHKの地上波でも放送が始まり奥さんが夢中になっています。

今日のテーマは「ソナタ」です。「冬のソナタ」は主人公がピアニストでもないのに何で「ソナタ」なのかと・・。

本来「ソナタ」は音楽の形式の一つで、
提示部(第一主題と第二主題を提示)→展開部→再現部
と進んでいく音楽の組み立て手法です。ベートーヴェンの時代に完成されたと言われています。

では「冬のソナタ」のストーリーがソナタ形式で展開(第一主人公と第二主人公の提示とか)されているか・・・・、そんなわけないでしょう。

そう! 「ソナタ」で一般の人が想起するイメージは「ピアノソナタ」ですから、「冬のソナタ」は、
「ピアノソナタはロマンチック」→「だから”冬のソナタ”はラブストーリー」→「しかも”冬”だから困難多き展開」
と連想させているのだ。・・・・・間違いナイ!

であるならば、別にソナタに執着する必要もないわけで、

冬のアリア・・・(旋律的な独唱曲)
冬のコンチェルト
・・・(協奏曲)
冬のラプソディ
・・・(狂詩曲)
冬のセレナード
・・・(夕べの音楽)
冬のノクターン
・・・(夜想曲)
冬のエチュード
・・・(練習曲)
冬のアダージョ
・・・(ゆるやかに)
冬のメヌエット
・・・(フランス起源の3拍子舞曲)
冬のリフレイン
・・・(反復)
冬のルフラン
・・・(反復)
冬のソナチネ
・・・(小さなソナタ)

あたりなら、「テキトーに、どうにでもなる」と思われます。

さらに言わせていただけば、
「冬のソナタにはまっているおばさんは、「ラプソディ」、「ノクターン」、「セレナード」を区別できない。・・・・・間違いナイ!(※)」

 

この他の音楽用語も組み合わせてみましたが、”色”がついている用語だとイメージ変わっちゃって使えませんね。

冬のロンド
冬のフーガ
冬のレクイエム
冬のワルツ
冬のブルース
冬のシャンソン
冬のバラード
冬のトレモロ
冬のポロネーズ
冬のポルカ
冬のエレジー
冬のファンファーレ
冬のサンバ
冬のボサ=ノヴァ
 
・・・主人公は「ホセ」か「ゴンザレス」あたりか。

個人的には、

冬のサラバンド
冬のシャコンヌ
冬のアラベスク
冬のパッサカリア
冬のパルティータ
冬のコンセルヴァトアール

ですと、なんだか曰く(いわく)ありげで好きですけどね。まず無理だろうけどね。

そんな話をしていたら、ショパンのノクターン(夜想曲 第二番 変ホ長調)を練習していた奥さんが、

奥さん 「私も一つ作曲しようかな、”シロツメクサのノクターン”

私 「何? それ・・・・・」

奥さん 野草曲

 

9.発想は同じ?・・・04/03/13ナンバーワンにならなくてもオンリーワンでいい・・なんて歌が流行ってますね。
人気の割には「これ!」という歌はなかった(私にとってはね)グループのように思えたのが、今回のヒット曲は老若男女まで行き渡り、何よりです。

「メンバー」はみんな個性があるし、一人一人が「道」を見つけたようで好感が持てます。
(昔、森口博子の「夢がMORIMORI」で、「♪ド、ド、ドリフの大爆笑」と無表情に踊っていたときは、まさかこんなにメジャーになるとは思わなかったが)。

ただ、あの歌詞ねえ・・。最初聞いたときから妙な違和感がありました。

「金子みすゝ゛」って詩人をご存じですか?

明治36年(1903年)に山口県に生まれ、その作品は西條八十に大絶賛されながらも、不幸な結婚生活で体を壊し、昭和5年(1930年)にわずか26歳の若さで世を去りました。

その「金子みすゝ゛」の作品にこんなのがあります。
(亡くなって50年以上経っているので、著作権は気にしなくていいようです)。

「私と小鳥と鈴と」

私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面を速くは走れない。
 
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ。
 
鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがってみんないい。

 

いい詩だよね・・。

他にも「相田みつを」の作品で、「トマトとメロン」ってのがあります。
(詩はそのまま載せませんが、検索かければ見つかるでしょう。)

詩の要旨は、

トマトとメロンをいくら比べたって仕方ない
トマトよりメロンのほうが高級だなんて思っているのは人間だけ
当事者同士は競ってなんかいない
各々の命を精一杯生きている
無理にメロンにならなきゃ・・と尻たたかれて、不幸せになっている人、いるんじゃない?

てなところです。

これらの詩が記憶の中にあるものですから、あのヒット曲もコンセプトは同じ・・と私は感じました。

(”作者”がなぜこのような曲を書いたのかはわかりません。何かあったのでしょうか・・・・・ってか)。

 

もう一つの違和感。

もともと特別な Only one
その花を咲かせることだけに一生懸命になればいい

確かにそうなんだけど、もし迷惑な花が咲いたらどうする・・と。

いやいや、食虫植物やラフレシアでもあるまいに、普通迷惑な花が咲くことはないんだけど、人間に例えた場合、「よりよい花」を咲かせるためには「ナンバーワン」、すなわち人格や能力などで素晴らしい人たちを知り、その人をお手本にしたり、目標を持って色々と努力することをやめてはいけないと思うのです。

 

もちろんこの歌は昨今の世相があまりにも競争社会になって、ナンバーワンをでなければ価値がない・・・なんて風潮のアンチテーゼだと思いますので、私が文句つける筋合いではないのですが。

ただね・・・、やっぱりあの歌は「金子みすゝ゛」を越えてはいない。

 

8.回転寿司雑感・・・04/02/15決して頻繁ではありませんが、家族で回転寿司に行くことがあります。
子供たちは「回る寿司屋」と言っています。これに対して普通の寿司屋は「回らない寿司屋」と呼ばれています。本来は「回らない寿司屋」の方が正統なんですが・・・。
「回らない寿司屋」には、ごくたまにしか行きません。この前いつ行ったか覚えていないくらいです。両者を比べればどちらがおいしいかは明かですし、何かの記念日などには行きたいんですよ、私は!

だが、子供達には大不評です。
「ほら、回る寿司に比べて海老のおいしさが全然違うだろう!」
と言っても効果なしです。

回転寿司は昭和33年に大阪の白石義明さんという人がビール工場の生産ラインからヒントを得て発明しました。ある解説によれば、人間には獲物が動いていると追っかけたくなる本能がある。回転寿司はその本能に訴え・・とありましたが。

子供たちにとっては、
「回る寿司屋は目の前を次々とネタが流れていくのが面白い。」、
「ゼリーや乳酸飲料などのデザートが食べられる。」
などが好きな理由でしょうが、決定的なのは
「座ったらすぐ食べられる。」
ことだと思われます。
確かに混んでいる時間に「回らない寿司屋」で握りなどを頼むと最悪です。しばらくはジュースなどで持たせていても、子供達はだんだん飽きてきますから。

ただ、回転寿司に何時頃行ったらよいか・・。これはかなり重要です。あまり混んでいる時間ですと座れないし食べられない。ピークの時間の後に行くと見捨てられたネタがやる気なさそうに回っています。
そこで我が家では混み出す30分くらい前に行くことが多いです。

で、子供たちが喜んで食べている間、いつも私がどんなこと考えてるかというと・・。

(あ、あのひからびたネタ、とうとう降ろされて捨てられたな。何回回ったのかなー。こういう店での廃棄率は10%くらいだって聞いたけどな。)

(「やられた!」このネタちょっと時間が経ってるな。この俺様としたことが!)

(まてよ?サーモビュワーで寿司を撮影しながら選べばどうだろう。握りたての寿司はネタが冷たくて、シャリは暖かい。時間が経ったネタは温度が均一になっている。そんなものを持ち込んだら、まずいかな。)

(いやいや、確か「無添くら寿司」は皿に印刷された「2次元コード」で時間管理して、一定時間過ぎたネタは赤ランプとブザーで職人に判るようになってるんだよなー。敵(?)がそう出るなら客も考えなくっちゃ。
サーモビュワー、会社にあったよな。「無添くら寿司」ってどこ?・・・大阪か・・・。)

私って変ですか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

先日、なぜか夕方の3時半くらいという中途半端な時間にいつもの回転寿司屋に行きました。
他に客は誰もいません。しかもコンベアには何も流れていない。

「何でもおっしゃってください。」

と言われて頼んで行きましたが、目の前に職人を置いて相対で頼むのはなかなか新鮮でした・・・って普通の寿司屋じゃ当たり前じゃないかっ・・と気付く情けなさ。

 

7.一生一度のお買い物・・・04/01/17
一生に一回しか買わないものって何があるでしょうか。

もう30年も前になりますが、ヴァイオリニストの辻久子先生がストラディヴァリの名器「ディクソン・ポインター」(1715年製)を購入するために自宅を売り払ったことが話題になりました(確か当時3000万円くらいだった記憶が・・)。ストラディヴァリには簡単に出会えませんから、先生にとってはそのチャンスを逃せない、一度のお買い物だったと言えるでしょう。

・・と、このような例もありますが、普通「一生に一度のお買い物」と言えば、

・土地 マイホーム マンション
・ウェディングドレス  婚約指輪 エンゲージリング
・仏壇、墓石
・ひな人形、五月人形
・嫁さん
(←削除の予感)

あたりでしょうかね〜。もちろん中には2度3度と買える幸せな人はいますけど・・。

「いやー、この前買った仏壇、なかなか良かったんで、もう二つほど持ってきてくれ。リビングにも置きたい。」
・・・ってことは絶対にないっ。

こういうものが欲しくなったとき、「どこで買うか」・・が難しいです。とにかく今まで買ったことがないわけですから。逆に売る方としては、「どうやって買わせるか」が勝負です。

もう一つ面白いのは、上に挙げた商品は安く買ったことが自慢にならない場合が多いことです。例えば婚約指輪などの場合、実際は30万円だったことを知っていても、

「彼からもらったこの指輪、70万円もしたんですって。無理しちゃって・・。」
って見栄張ってる人は大勢いるでしょうな。
「羨ましいわ、愛されてるのね。」
って言われたいために。

仏壇なんかでも、
「ウチの仏壇は200万円したんだ。」
と言えば、
「おおお、ご先祖を大事にしてますねー。」
って返事が帰ってくるでしょう。
「本当は200万円したんだが、120万円に負けさせた。」
と言う人はめったにいない。

これに対して、実用品は違います。
「このプラズマテレビ、定価で買ったんだぜ。」
「おまえ・・・、バカか。」

要するに「一生一度のお買いもの」の中には実用ではなく気持ちを買うものが多いのです。

「一生一度のお買いもの=満足を買う」の図式に従えば、これほど素晴らしい見本はないわけで・・。

 

6.「広告申し込んだでしょ」詐欺?・・・03/11/22最近「オレオレ詐欺」ってのがブーム(?)です。手口はご存じですよね。
「おばあちゃん、オレだよオレ。」
と孫を装って電話し、
「オレって真二(仮名)かいな。」
と名前を言わせて、
「そう、真二。今さー、ちょっと交通事故起こして困ってるんだ。すぐお金が必要なんだ。」
(以下の展開は略)。

私の住んでいる市の警察署管内でもすでに15件の「オレオレ詐欺」が発生し、350万円くらい被害が出ているそうです。
警察署の話では、先日もあるおばあさんが銀行にやってきて、東京の某口座に数十万円を振り込もうとしたとのこと。
行員が気を利かして、
「どなた宛に送金されるのですか?」
と聞いたら、
「息子だがね。」
と言うので、
「息子さんは東京にお住まいですか?」
とさらに訪ねたところ、
「息子は一緒に住んでいるがね。」
となって、未然に防げた実例があったそうです。

・・・(よかったよかった・・・・・・・・よかった。)

ワタクシ、勤務先の会社では広告宣伝を担当しております。
先日会社に電話がかかってきました。
「△△プランニングと申します。え−、申し込まれた○○○○新聞の広告原稿ができましたので、FAXさせていただきます。」
と言って電話は切れました。
全然記憶にない会社、新聞です。変だナーと思いましたが、何しろたくさんの広告を出していますから急には思い出せない場合もあり、失礼があってはいけません。
とりあえず○○○○新聞をネット検索したんですが、そんな新聞出てきません。○○○○新報ってのは確かに存在していますが、この新聞、私の勤務する会社とは全く無関係の分野です。

FAXを待っている間にまた電話がかかってきました。
私 「○○○○新聞なんて世の中にないですよ。」
先方 「ありますよ。」
私 「○○○○新はあるけどね。」
先方 「あ、同じ新聞です。」

・・・(あやしい奴。)

私 「そもそも、本当にウチが広告を申し込んだんですか?直接私とお話ししたんですか?記憶も記録も全くないんですが。」
先方 「9月に電話したとき、冬ならOKって言ったじゃないですか。約束もしなくてこんな電話するわけないじゃないですかっ。」
私 「とりあえずいったん電話を切らせていただきます。」

・・・(2ヶ月前かよ。ちょうど忘れ頃ってやつだな。)

さて、程なく広告原稿のFAXが送られてきました。
ほほー、ウチの商品の写真、会社や商品のロゴ、キャッチコピーなどが、切り貼りしたみたいに並んでいます・・・。これは原稿ではない。ただのコラージュ(切り絵)ですな。とてもそのままでは使えたしろものではありません。
ちなみにベースになったのは1年ほど前に札幌雪祭りの関係である新聞に一回だけ使った広告でした。その新聞を手に入れて作ったのね。

私が呆けていて約束した広告を忘れていた可能性はまずありません。新しい広告媒体の案内が来れば、発行部数や読者層、掲載日、料金、原稿作成方法など、必要な打ち合わせは必ず行います。こっちに記録も記憶もないわけがありません。また、写真やロゴを使う原稿なら、他人任せにすることはまずあり得ません。

「○○○○新報」に電話をかけ、媒体特性や発行部数、配布方法などを教えていただき、「やっぱりこの新聞に広告を出す約束をするわけない。」と自信を深め、手ぐすね引いて待っていると3度めの電話がかかってきました。

いきなり私 「ところでこの原稿はどうやってお作りになりましたか?」
先方 「え、これは。 どうやって作ったか・・。」
言葉に詰まっております。その間耳をそばだてていますと、どうやらその事務所では何人かがあちこちに電話をかけている様子が聞き取れます。
「以前お約束しましたよね。」
とか言っている人がいます。
しかも先方がどうやら上司とおぼしき人と会話している声が筒抜けです。
「どうやって作ったかって言ってます。・・・言わない方がいいですよね。」

・・・(おーい、聞こえてるぞー。)

「お前らのやっていることは、全部すべてまるっとどこまでも、お見通しだっ!」(仲間由紀恵)

しばらくして先方は、
「少々お待ちいただけますか?」
と答え、電話を保留にしてしまいました(その会社の保留音はレット・イット・ビーです)。
2分ほど受話器を耳に当てていましたが、いっこうに出てこないのでスピーカーに切り替え、受話器を置いて別の仕事に移りました。

10分後、相変わらず保留音は鳴り続けています。
私は
(もう許してやる。)
と心の中でつぶやき、電話を切りました。

あれから電話、かかって来ないよなー。

 

3.コンパニオンの追っかけ・・・03/05/31先日廃棄物処理方面の展示会に行って来ました。私の努める会社が別の会社と共同開発した製品を展示したのですが、私の方は製品説明ビデオやカタログを作り、もう一社は説明コンパニオンのおねえさんの手配などを行いました。

モーターショウなどと違い業者相手の比較的地味な展示会ですが、あちこちのブースにきれいなおねえさんをたくさん見かけました。

こういうプロのコンパニオンにもランクがあり、受付にぼけーっと座って、ただカタログを配っている人よりは、大型モニターの前で商品説明できる人の方が、ギャラは高いです(もちろん容姿によってもランクがあるだろう)。
受付にぼけーっと座っている人は出展会社の社員の場合もありますが、常に笑顔を絶やさず、私語もせず、体がゆらゆら揺れていなければプロと考えていいでしょう。

で、私たちのブースのおねえさんは大したものだった。積極的にブースの外に出て、お客さんにカタログや景品を配ったり、アンケートを書いてもらったりしています。
彼女たちはその日何人からアンケートを書いてもらうか・・それを当日の朝、自己宣告しているんですね。

ところでウチの会社の説明担当と立ち話していたら・・。

「もう帰っちゃいましたが、さっきまで”カメラ小僧”がいましたよ。」

「何それ。」

「お目当てのコンパニオンの追っかけですよ。客が多い時は物陰に隠れているんですけど、コンパニオンが一人になったときにささっと出てきて、写真を撮るんです。
さっきいたのは20代くらいだったけど、昨日の人は40代くらいだったかな。」

「コンパニオンもいやがるだろう。」

「ところがお互い顔なじみなんですよ。前の展示会に出ていたときの写真をアルバムにしてそれを渡し、また新しく写真を撮る。で、次の機会に今日撮ったのを渡すんです。」

「てーことは、そのお目当てのコンパニオンのスケジュールを完全に把握しているってこと?」

「その通り。」

・・・聞いてはいたが、恐るべきマニアの世界。

 

2.いかにもありそうな名前・・・03/04/12
山田花子(本名 渡辺京子)ってタレントがいます。山田花子は、「どこにでもいる没個性的な名前」なんですが、逆にそれをキャラにしているという・・。

山田花子は山田太郎とペアでよく使われます。文章のテンプレートなどに個人名を書くとき、あたりさわりのない名前として定番で、使い勝手の良さになります。

念書

山田太郎と山田花子は、このたび協議離婚をしたが、山田太郎は山田花子に対し、離婚慰謝料として金○○○万円を支払うことにし、本日、金○○○万円を支払った。

(中略)

立会人  氏名 鈴木健二  印

逆のパターンですが、この前ちょっと厚生年金に関係した書類を眺めていたら、

年金厚一さん(自営業)夫婦の例 (月額モデル) 妻、年金ひろみ

なんてあったりして・・。「年金厚一」はおそらくまず実在しない人物ですけど、この場合、誰も変だとは思わない。

そう言えば、小説や映画なんかでは、「いかにもありそうで実際にはない会社」なんかがあります。

毎朝新聞・・・ゴジラシリーズで出てきます。
日東新聞
東西銀行
京南大学
・・・若大将の母校
城南大学
・・・仮面ライダークウガの沢渡桜子さんの大学
城北大学
・・・本郷猛はこっち(化学研究室の学生)、あるいは京南大学のライバル高として
四菱電産
電博堂(広告代理店)
実話の友
・・・「海底軍艦」に出てくる雑誌社
黒竜会(その筋) 

 

ちなみに若大将は19回のシリーズの中で、

京南大学(法学部・経済学部・水産学部・建築学部・工学部)→日本水産大学→再び京南大学(工学部・理工学部)

と学生時代をふらふら過ごし、社会人になってからは、

日東自動車→キャピタルモータース出向→日東自動車海外普及部に復帰→三矢物産→熊井鉄工・東海建設→石山商事

と来て、最後は、

サザンクロス諸島大統領補佐(帰ってきた若大将)

だとさ。ひとところに止まれない男だ・・。

以上三つの方向性を紹介しましたが、やはり三番目が最も興味深い。「いかにもありそう」、でも「実際にない」名前って、結構考えるのが難しいですからね。

ちなみに、最近はネットで色々調べられますので、「守田美弥」も無名のタレントやアナウンサーがいたらまずいので、ちゃんと事前にチェックしております。
もしお暇なら、「守田美弥」で検索かけてみてください。

 

1.「マンネリ」か「スタイル」か・・・03/03/08ユーミンが新曲を出し、あなたがそれを初めて聞いたとします。ご本人が歌っていれば迷うことはありませんが、仮に音楽だけ聞いたとしても、「あ、ユーミンだ。」とわかるでしょ?
この他、さだまさし、小椋佳、中島みゆきの曲などもわかるんじゃないでしょうか。

この方々、ご自分で歌うと同時に他の歌手にも曲を提供しています(※)。例えば有名どころでは・・、

中島みゆき・・・すずめ(増田けい子)、かもめはかもめ(研ナオコ)、MUGO・ん・・・色っぽい(工藤静香)

ユーミン・・・時をかける少女(原田知世)風の谷のナウシカ(安田成美)

さだまさし・・秋桜{ コスモス}(山口百恵)

小椋佳・・・シクラメンのかほり(布施明)、愛燦燦(美空ひばり)、俺たちの旅(中村雅俊)、夢芝居(梅沢富美男)

歌い手が変わることで、ちょっと見には気付かない場合もありますが、メロディーを口ずさめば「あの人の曲だね」ってすぐ判ります。
ではなぜ、作曲者がわかってしまうのか、それはこの方たちの作る曲に強い個性があるからですな。

同じことはクラシックでも言えます。モーツァルトなどは、今まで聴いていなかった曲を耳にしても「おそらくモーツァルトだろう」とわかります。

それはすばらしいことなのか・・と考えると、何とも結論が出しにくい。「調和の霊感」や「四季」で有名なアントニオ・ヴィヴァルディ(1678〜1741)は、生涯で600曲くらいの作品を残したらしいですが、ある時、別の作曲家に作品の多さや作る早さを自慢したところ、
「オメーなんか、一つの曲を600回編曲しただけだろうがっ!!」
と言われたとか。

ゴジラの伊福部昭さんもある意味評価が難しいですね。

このサイトによく来られるToshi1号さんによれば、
日活『ビルマの竪琴(1956年)』には『ゴジラ(1954年)』の曲が使われている”
そうです。他にも色々あったはず・・。

とは言え、TACさんによれば、
伊福部先生の曲は、あの当時、マサカ今みたいに映画の劇伴がサントラやビデオでファンに繰り返し聴かれるというのが思いもよらぬ時代だったので、製作サイドから、あの曲の評判よかったからまた使ってくれとか、そういうオーダーもあってご本人も困惑した・・・というのを何かで読みましたが、曲が似るのは本人の「作家性」のあらわれでもあり、曲調の統一でシリーズとしての世界観の統一もなされているようでワタシはけっこう好きです。

怪獣・特撮ものでよく使われているメロディーラインも、元をたどれば大戦末期に先生が陸軍になかば強制的に作曲を依頼された「兵士の序楽」が原曲になっております。

新録版のCD聴いて感動しました。ああ、これがあの音たちの“源泉”なのか、と。”

とのことで、なるほど!

伊福部さんの作品に使い回しがあったとしても、やはりゴジラには伊福部音楽が流れていなければ納得できない・・!そこまでの段階に達してしまえば、これは立派なものだと思うのです。

模型の場合は原則的にマスプロ製品ですから、作風を出すのは難しいかもしれません。でも私の相互リンク先さんの中にはそういう人もいます。すばらしいことです。


(※)上に挙げたような曲をご本人が歌うときなどもあります。これはこれで味があって、提供された歌手のバージョンより遥かにすばらしい場合もあります。青い字は私が「ご本人」バージョンの方が好きな曲。 ピンクは・・・言わせないでね。

小椋佳が多い理由? いやー、ちょうど大学生の時ブレイクした人で、好きなので・・。ちなみに井上陽水に詩を提供した『白い一日』ですが、最初聞いたとき、「何で掃除機を眺めて飽きないのか」と思いました。それは陶磁器!