その後のタミヤグランプリ (ああ、ボクはもう過去の人?って思う、2001年、2002年の惨敗結果) |
98年のタミヤワールドチャンピオン決定戦出場を一つのハイライトにして、その後は夏のタミヤグランプリ出場が、唯一ラジコンをする機会となっています。
ラジコンが嫌いになったわけではないですし、そもそもこのサイトを開いたのも、ラジコンへの情熱を再び燃え上がらせるためだったはずなんですが、見に来るお客さんは明らかにプラモ目当ての方が多く、私もプラモの方が面白くなっていることは事実。 腕も落ちてしまいましたが、電動ラジコンカーの生き証人としては、これからも細々ながらラジコンを続け、その様子をレポートしていきたいと思います。 |
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2001年タミヤグランプリの総括 | ||||||||||||||||||||||
まず山形大会の結果 ・・・2001年7月20日 | ||||||||||||||||||||||
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新潟大会の結果 ・・・2001年8月26日 |
山形から一ヶ月、昼休みにちょこちょこと会社で練習し、勘を取り戻すことに。TB(EVO)は良く走ります。ミニもややセッティングをし直しました。 だが・・・。 |
と言うわけで、2001年は亀の子大会になってしまいました。さすがに普段やっていない影響は大きく、これだけ何回も亀の子になる理由は、マシンを自由にコントロールできるほど、腕がついていかなかったためでしょう。とほほ。 |
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ちなみに、中学の時知り合い、このサイトでもあちこちで触れているK君も久しぶりの参加。彼はクルマにバリチェロとコールサードの似顔絵を描いて、見事コンクール・ド・デレガンスをゲット!
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2002年タミヤグランプリの総括 |
新潟大会の結果 ・・・2002年8月25日 |
富山からは相互リンク先のサトちゃんやniCさんらもやってきたぞ。 ちなみにniCさんは今回初めて新潟に来られましたが、私が98年にワールドチャンピオン決定戦に出たときの富山代表。会場でもお話していた仲です。 (サトちゃんは前列右、niCさんは中央奥の金髪の人です。
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左から、私、M山君、N藤君です。二人も世界戦に出場した経験のある、新潟のエキスパートドライバーです。
ではなぜこの三人でF−1を持っているかと言いますと・・・。 3人でチームを組んで、F−1・2ステージグランプリに出たんですね。 (F−1・2ステージグランプリ・・・3人でチームを組み、一人5分ずつ交替で走る。第一ヒートは15分、第二ヒートは20分。その合計周回数で競う。今回は、19チームが出場)
内藤 「会長! K藤さんとM山さんと3人で2ステージグランプリに出るつもりだったんですけど、K藤さんが仕事で急に来れなくなったんですよ。雇われドライバーで参加しませんか。」 私 「え、俺このクルマ走ったことないよ。」 N藤 「会長なら大丈夫でしょ。パワーかけるとリアがずるっといくし、コーナーの入り込みは曲がらないけど。」 私 「最悪じゃん。」 N藤 「それから強くぶつかると、サスペンションアームが一発で折れますけど。」 私 「ぶつけられないじゃん。」 と言うわけでレース開始。まずN藤君が飛び出し、一位をキープ。5分後に私に交替、一週ほど様子を見て走ってみますが、大体クセをつかんだのでアタック開始。 私 「さっき放送で代表権が・・って言ってたけど、アレ何?」 N藤 「優勝すると、静岡に行けるんですよ。」 私 「え!そういうレースだったの・・。責任あるじゃん・・。」 さて、第二ヒートも好調・・と思いきや、モーターが熱ダレし始め、むむむの展開。(どのクルマも程度の差こそあれそうなりますが、ウチらのクルマは他よりかなりストレートが遅くなりました)。 だが老練な我々のドライバーテクニックで一位はしっかりキープ。きっちり完全優勝させていただきました。 レースが終わってから、K藤君(写真の中に入れ込みで入っている)がやってきました。 |
ん? 肝心なあんたの成績(ミニスポーツ部門)はどうなったかって? 「武士の情け」という言葉があるのを知らんのか。 |
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